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【プロフィール】高校でレギュラーでもなかったヤツが15年プロコーチを続けてきた土台 〜大学生以降〜

こんにちは。 前回に引き続きプロフィール後編を記事にします。

前回の内容はこちら

大学時代

前回の続きになりますが、JFA公認C級ライセンスの取得が決まりました。

今でこそ取得年齢が下がりましたが、当時は4/1時点で満20歳でないと受講できなく、実質21歳の歳になります。

専門学校への入学を辞めたのは、これが理由になります。

21歳の歳だと既に卒業するとしになっており、そこから取得しては遅いと予想していました。

当時は準指導員という名前でした。

今でこそ、割と普及してサッカー経験がない方でも取得することは可能ですが、当時は受講するのに推薦が必要だったり、書類審査みたいなものがありました。

4泊5日の合宿+実技試験がありました。

実技試験は、実際の小学生に対して割り当てられたメニューで指導の実践をするという内容です。

20名弱ほどの受講者たちと一緒でしたが、私は最年少参加者でした。

4泊5日の合宿を終えたところで、インストラクターのかたが某Jクラブの育成部長であったため、そのかたに拾っていただき翌年からそのクラブで働くこととなります。

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某Jクラブ時代

契約形態はアルバイトでした。

大学に通うことを平行していたので、アルバイトでいただけるお金も私にとっては十分な額でした。

授業が終わり次第、急いで帰宅して練習に間に合うようにしていました。

もちろん公募でのアルバイトなどいなく、当時クラブには営業部門にインターンに来ていた大学生と私の2人が大学生でした。

コーチたちはテレビで見ていた元選手やプロの指導者たちで、見ること全てが刺激的で新鮮でした。

トップチームの練習場でも練習することがあり、練習を終えた選手たちとすれ違うだけでドキドキものでした。

よく練習に専門学生が研修にきていましたが、同い年くらいで、かたや私は練習を任されお金もいただける、かたや研修でアシスタント、の違いに選んだ進路が間違えでなかったことを確認できました。

選んだ進路というよりは、自分の進む道に強く思い続けた結果だと思いました。

スクールでの指導がメインでしたが、チームの方にも帯同させていただいたり、地域のトレセンに派遣させていただいたり、練習ではダメ出しされてばかりでしたが今の自分の土台を作っていただいた人や環境に感謝しかありません。

トップチームも右肩上がりに成績を上げていき、育成組織も大きくなっていき、自分も大学を卒業する頃には、このクラブでプロ契約をすることが目標でした。

周りの学生は就職活動をしていましたが自分にとっては、毎日の練習が就活みたいなもので、スキルを上げていくことが生き残っていく唯一の方法だと、毎日を過ごしていました。

2年経って自分の指導にもなれ始めた頃でしたが、やはり指導者である以上監督としてチームの指揮をしたいと思う気持ちが強くなっていきます。

素晴らしい指導者ばかりなので、このクラブでチームを任されることはおそらく難しいだろうと、クラブを離れる決意をします。

当時も今も素晴らしいクラブですが、いつか自分の指揮したチームでこのクラブを倒そうという目標に変わりました。

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街クラブ ジュニア指導

そんなことを考えていた時期に、とある街クラブからオファーをいただき大学卒業後はそちらのクラブで指導をすることを決断します。

在籍していた選手の将来像やクラブのハード環境などは、それまでの環境とは一変しました。

いわゆる街のクラブチームです。

最初の頃はJのチームで働いていたという無駄なプライドが邪魔していたように思いますが、さまざまな選手を見ていく中で、また周りの人の支えの中で、指導者としての価値観が広がったと思います。

この頃から選手の引き出しを最大限に引き出したいと思うようになりました。

指導者としての肩書きだけでなく、その選手が私と関わることで他のどの監督よりも、私が引き出してあげたいと思うようになりました。

地区大会で1回戦で負けてしまったり、在籍人数がギリギリで公式戦で人数不足により棄権してしまったりするようなスタートでしたが、時間をかけてクラブの基盤を作れるようになりました。

地区の大会で上位進出したり、Jリーグのアカデミーに毎年輩出したり、地域のトレセンにも複数名選ばれるようになりました。

ゼロに近い状態からどうゆうプロセスを踏めばある程度自分が望んだ状態に持っていけるか、クラブが発展していけるのか、基礎固めのノウハウを知ることが出来ました。

スクール設立・ジュニアユース設立

自分で独立するなどは微塵も考えていなかった20代でしたが、上記したような経験をしてきて自分の実力はいかほどのものか、試してみたいと思うようにもなり独立をします。

スクールを立ち上げたり、ジュニアユースチームの立ち上げに関わったり、現場とマネジメントの両方をやっていくこととなります。

想像もしていなかった未来です。

この期間に多くの選手と関わることができて、これまではクラブやチームの冠を武器にしていたこともあったかと思いますが、個人の信用だけでやれてきたことは自分でも驚きでした。

まだまだトップクラスの指導者には遠く及びませんが、スキルをあげないと生き残れないと思っていた20代前半の気持ちは、今も変わらずにいます。

在籍していた某Jクラブの研修で、とある他Jクラブのベテランの指導者とお話し出来る機会があり、釘を指すように言われたことがあります。

『あなたが、そのエンブレムを外したとしてもそれ以上か、同等に勝負できる指導者になってくださいね』と。

その研修会以来お会いしていなく、初見の私に対して伝えてくれたことが今でも自分の指標になっています。

高校でもレギュラーではなかった私が、約15年以上サッカーでお金を稼げていることの土台は、これまでに出会った人たちが教えてくれたサッカー指導者として大切な本質だったように思います。

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これから

年齢的にも指導者として中堅ほどの年齢になってきたので、これからは結果にこだわり、クラブや関わる選手がもっともっと飛躍的に成長していけるように日々を過ごしていきたいと思います。

藤原 和博さんの希少性の話。

希少性を高めるの、100×100×100の話しをご存知ですか?

私もそろそろ次の100を作るタームに差し掛かってきた気がしますし、新たなスキルを手にする必要性を感じてきました。

そこで情報発信をしていくことで、次の100を手にする足掛かりになるのではないかと考えています。


長文お読みいただきありがとうございます。

お読みいただいたあなたにとって有益な情報であれば幸いです。

これからもよろしくお願いいたします。

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