ジャズピアニストのセロニアス・モンクの「underground」というアルバム

ジャズピアニストのセロニアス・モンクの「underground」というアルバムのジャケットには、まずは地下室らしき暗い部屋、ホコリっぽいアップライトピアノ、ワインが何本かと、飲みかけのワインとグラスが鍵盤の端っこに、座ってピアノを引きながらタバコを吸い、独特のモンク帽を被っている人物はセロニアス・モンクだろう。とても長い銃を持っている。左前には果物とグラスに飲み物(ピアノに置かれているワインの色とは違う)、手榴弾、傍聴機(?)、左後ろには敵、しかもある程度高官ぽい歳の取り方をしたおじさんが制服を着て縛られている。後ろにはナチスの旗が垂れ下がっている。一番後ろに女性がモンクの三分の一ぐらいの銃を持ちながらこっちを見ている。入り口の扉はチューリップ(?)のステンドグラスがはめ込まれている。

このアルバムがモンクの最後のオリジナルアルバムということになるらしい。ジャケットとしては、やはりナチス的な何かのレジスタンス、抵抗運動を、いささか子っぽい形ではあるが、表現しているのだろう。このアルバムの三曲目、「Raise Four」では、ピアノのテーマの部分が同じフレーズを繰り返すというもの。周りがちゃんとしているだけにとても不思議に聞こえるし、駄々っ子みたいにも聞こえるし、笑けてしまうというか。そういえばモンクが、モンクのためのビックバンドを従えて演奏してるレコードでも、モンクはビックバンドのビックバンドらしい演奏から変にあぶれるようなピアノを弾いていた。ビックバンドの演奏を均整の取れた、と言っていいのかはわからないけれど、少なくともみんなで目指すハーモーニみたいなのはあるとして、モンクは自由に、というよりも、その場につい紛れ込んじゃってどうしよう、でも鳴らしとくしかない、みたいな風に弾いていた。とんでもない場所に着て、場違いな感じ、それがとてもおもしろい。

つい先月、先々月ぐらいまで、確実に存在したと思われる、唐田えりかという女優がいる。彼女がすごいなと思ったのは、『寝ても覚めても』ももちろんすごいが、何とってもソニー損保のCMだろう。透明感、透明感と言われているが、あれは透明感というものではない。CMでキャストが、エキストラからおそらくスタッフまで、CMの枠組みをキッチリと作っているのだが、その中で唐田さんのふるまい、声のトーン、表情のテンションが全然違い、ものすごく浮きまくっているように見える。一番すごいのは、人々に元気と勇気を与え続けている女性ハーモニーボーカルグループ、Little Glee Monsterと共演したCMだ。全力投球でハモり、自分にこの仕事を与えてくれてありがとうございます、私たちめちゃくちゃ頑張ってますよ!ということがものすごく伝わってくる音楽をバックに、唐田さんは「(保険料は)はしるぶんだけ!」とすごく自由に、というよりも、CMのやる気に満ちた現場の雰囲気に飲まれることなく、自分のやりたいテンションを維持しながらやりたいことをやっている。もしかして何も考えてないのか?と思った時もあるが、多分そんなことはない。これは、モンクに通じる何かなのではないか?まさかレジスタンスとか、そんなことを考えている訳ではないだろうが…。

ともかく、モンクの場合、ある種場違いな自分のピアノを何らかのレジスタンスとして捉えていったのだろうか。周りの雰囲気を受け取らず、別に無茶苦茶をするつもりもないが、弾かないところは弾かず、ボイコットする時はし、発展させない時は発展させず、周りにちょっかいをかけるように変な音を加えて変なハーモニーにしたり、弾くときはアホみたいに、過剰なほど弾くなど。このような身振り、振る舞いをモンクは最終的に「underground」にした。

そもそもの話だが、音楽に歴史があるとして、連綿と続くものがあるとして、技術的なことや組織的なものや派閥やジャンルが形成されているとして、それは別に悪いことではなく、そういうものがないと、メチャクチャだとお互いのコミュニケーション自体がとれずに、バベルの塔の伝説のように、全ての人が別々の言葉をしゃべりだすと機能不全になってしまう、その反面、全ての人はどうしても別々の言葉をしゃべるしかないようなものでもあるのだが。とにかく、同じ語彙、同じ枠組み、同じパフォーマンスを共有して何かを構築していくという人間の営為において、音楽はかなり手っ取り早い方だし、そこには何かしらの熟練さがある人が優位であることは間違いない。優位というのは、意識的なコミュニケーションのカードが多くなる、という程度の話だが。といっても、そこで僕は、何か人には自分の中でこれは言わなければいけない、ということがあるということを言いたいわけではない。「何か人には自分の中でこれは言わなければいけない」問題が発生する時とはどんな時だろう。例えば、職場で、パソコンでの文字起こしを生業にしている人が、昨今の色々な事情で、会社に来れない時、「テレワークが可能なのは原理的に可能なのはわかるが、あなたはアルバイトなので、テレワークではなく、休んでくれ」と上司に言われた時、何とかテレワークをさせるように他の上司に働きかける行動、これは「何か人には自分の中でこれは言わなければいけない」という状況に当てはまると思う。仕事に関すること、生活に関すること、人権に関すること、何か存亡に関することに、「何か人には自分の中でこれは言わなければいけない」ことが起こる。これを音楽に敷衍させると、自分の中のエゴみたいなものと同一視されてしまうことがあるが、ちょっと違う、ということを見極めないと、音楽の中でうまくコミュニケーションができないことがあるかもしれない。この中で僕が、「うまくコミュニケーションができない」というのは、例えば、誰か一人ものすごい仕切り屋がいて、プレイヤーに色々指示を出しまくり、他のプレイヤーからの発言はしづらい雰囲気を醸し出す、とか、そういう状況も含まれる。つまり、各々が別の言語をしゃべらざるを得ない性質があるのと、「何か人には自分の中でこれは言わなければいけない」という状態には、あまり相関関係がない、ということだ。

みんなと何か一つの枠組みを持った曲をとりあえずやってみて、それぞれのメンバーの気持ちや体調や環境を反映させた身振りとしての音を聴きながら、それに反応して乗っかって行き、ドライブする時にはドライブし、音を出す必要がない時は待ち、できた間を尊重し、動き出したらそれに乗ってみたり、でもあえて全然違うことをしてみたり、友達の家に泊まったら朝になってて、車で駅まで送ってくれる、まさにその車に乗っている時に、空を見上げるとものすごくいい天気でものすごくいい青空、このまま三浦半島の城ヶ崎まで行きたいな。「あ、行きます⤴️?」本当ですか?本当に三浦大根ばかりが一面を覆っていたその三浦の丘を越えると、岩礁がどこまでも海に突き出している城ヶ島にたどり着き、10メートルはある岩礁には波のためのスロープがあり、そこをガンガン登ってきて僕たちの足元で弾けるその波の動きは、テレビで見た火山の溶岩の動きと全く同じで、私たちは地球(ガイヤ)に住んでいる、というのを確信したし、そこの漁港の前の定食屋で食べたマグロ定食がものすごい厚切りでびっくりするほどおいしかった。友達の分は僕が払って、それをここまでの交通費ということにした。win-win。

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