JOG(804) 縁の下の力持ち ~ 銀行業の元祖・安田善次郎
銀行業界の元祖・安田善次郎は「陰徳」を積みながら、近代日本の発展を支えた。
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■1.明治日本を支える縁の下の力持ち
明治27(1894)年8月1日、日清戦争の火ぶたが切られた。我が国が初めて経験する近代総力戦であるとともに、相手は世界の大国・清国である。
渡辺国武蔵相は大手銀行首脳を呼んで、戦時国債発行について相談した。安田善次郎の姿も、その中にあった。第一回の起債は3千万円が計画されていたが、当時の国家予算8千万円ほどに比べれば、その4割近い規模となる。
渡辺蔵相はすでに市中に出回っている国債の金利が5%なので、これだけの大量発行を行うには6%の金利をつけないと消化できないだろうと考えていた。
ところが「5%で行くべきです」と反対したのが善次郎だった。政府が6%つけようとしているのに、なぜわざわざ銀行側が金利を下げようとするのか、といぶかったが、善次郎の話を聞いていくうちに納得できた。
善次郎は国民の愛国心を信じていた。今、国家の存亡をかけて大国・清と戦おうとしているのに、国民がその戦費調達のための国債を買わないはずがない、と善次郎は説いた。その熱弁に渡辺蔵相も大きく頷き、金利は善次郎の言うとおり5%とした。
果たして募集を開始すると、3千万円の発行に対して、7千7百万円もの応募があった。政府は急いで第2回5千万円を発行。そのうち、善次郎は実に2千3百万円を引き受けて、政府の戦費調達を助けた。国家予算の1/4強の規模の国債を安田銀行一行で引き受けたのである。
善次郎は事業面でも政府を助けた。日本で初めてコークスを用いた製鉄技術を確立した田中長平に融資して、釜石の鉱山を買い取らせた。田中は鉄鉱石採掘に成功して、欧米からの鉄鉱石輸入を大きく減らし、外貨の節減に貢献した。
こうして善次郎は銀行家として縁の下の力持ちとなり、明治日本を支えたのである。
■2.「陰徳を積む」
「陰徳を積め」とは、善次郎が子供の時から、父親から叩き込まれた精神であった。人に褒められようとして善行を施すのではなく、誰にも知られずとも人のためになることを黙々と行え、というのである。
富山の下級武士の家に生まれた善次郎は、子供の時から、農作業や野菜の行商で家を助けたが、安政5(1858)年、20歳にして東京に出てから、両替商で奉公を始めた。
土間に沢山の履き物が乱雑に脱ぎ捨てられていたが、仕事の合間を見ては、それらを揃えた。紙くずなどが落ちていると、拾って屑籠に入れる。父親に教えられた「陰徳を積む」ことが自然にできるのである。そんな善次郎を主人は可愛がってくれた。
25歳の時に独立して、両替商兼乾物屋を始める。毎朝4時、まだどこの家も起きていないうちに起きて、向こう三軒両隣の前を掃き清め、水を撒く。
乾物を売るにしても、良いものから売った。古い物が売れ残っても、それは自分の損とした。そんなやり方が評判を呼び、瞬く間に客の数が増えて、利益が出るようになっていった。
自分の利益ばかり考えていると利益は逃げて言ってしまうが、陰徳を積んでいると、勝手に利益が向こうからやってくるという商売繁盛の秘訣を、善次郎はすでに身につけていたのである。
■3.両替商として、幕府を支える
善次郎が両替商として頭角を現したのは、幕末に幕府から古い小判を回収して新しい金貨に交換する業務を一手に引き受けてからである。
当時、諸外国との交易が始まっていたが、日本では金の銀に対する交換比率が欧米諸国よりも安く、諸外国は銀を持ち込んで、日本の金貨を買い漁った。欧米商人達は笑いが止まらないが、日本国としては大きな損失である。百万両ほども流出して、商取引に疎い幕府の役人もようやく腰を上げた。
幕府は古い金貨を回収して、金の含有量を落とした新しい小判を流通させる事とした。しかし、その引き換え業務をしてくれる両替商がなかなか見つからない。幕末の混乱の中で、諸国の浪人が軍資金の借用などといって強盗に入っていたので、多額の現金を扱う引き換え業を敬遠したのである。
唯一、この幕府の依頼を受け入れたのが善次郎だった。資金のない善次郎に幕府は即座に3千両も貸してくれた。毎日、大量の古い小判が店頭に持ち込まれ、新しい金貨に両替するのだが、善次郎のところではその鑑定や枚数において、まったく間違えがない、と評判を呼んだ。
この両替業務で、善次郎は「身代をこしらえた」と語っているが、同時に幕府は金の国外流出という国家的損失を防げたのである。
■4.新政府の最も苦しい時期を支える
幕府が倒れ、明治新政府が発足しても、商人たちは財政基盤の脆弱な新政府に近づかない。太政官札という不換紙幣(金貨との交換を保証しない紙幣)を大量に発行して財政危機を乗り切ろうとしたが、信用のない新政府の紙幣では紙切れ同然と、引き受け手が現れなかった。
政府の窮状を見かねて、太政官札を引き受けましょうと、手を上げたのが、またしても善次郎だった。一時は太政官札が額面の半分以下に落ち込んだが、「必ず新政府の権威が確立する」と信じて善次郎は引き受けを続け、数年後には額面通りに通用するようになった。この事業で善次郎の事業もさらに大きく伸びたが、同時に新政府の最も苦しい時期を支えたでのある。
しかし、善次郎は両替商が政府に取り入って政商になることは社会のためにならない、と政府要人とは距離を置いていた。あくまで両替商という裏方として、陰徳を積んでいったのである。
■5.金融界の発展のために
明治政府は近代的な金融制度の確立のために、国立銀行の設立を各地の豪商・財界に勧めた。たとえば、渋沢栄一[a]を中心とした国立第一銀行、横浜の第二国立銀行といった具合である。
大阪の豪商たちが設立を進めていた第三国立銀行は、発起人の間で対立が生じ、設立が遅れていた。ここで「あとは引き受けましょう」と手を上げたのが善次郎だった。
明治9(1876)年に開業免許を受けると、善次郎は店員たちとともに、大蔵紙幣寮付属の簿記学校に通って、近代的な簿記の勉強を始めた。事業を始めると、事務、帳簿、伝票書式まで営業ぶりは実に整然としていた。
その後も各地に国立銀行が続々と作られたが、銀行設立に関する具体的な事務手続きを聞きたいと大蔵省に行くと、「安田さんのところへ行って聞いてください」という返事が決まって返ってきたという。善次郎自身も、いくつもの銀行の設立指導をし、また行員の研修を受け入れたりして、銀行業界の発展を陰ながら支えた。
やがて各地の国立銀行の元締めとなる中央銀行の設立が求められ、善次郎も創立事務御用掛として任命された。欧州各国の制度の良いところを集めたというベルギーの中央銀行をモデルとしながらも、善次郎の主張した日本の風土に合った両替商の伝統の良い部分を引き継ぐ折衷方式が採用された。
明治15(1882)年に中央銀行として日本銀行が創設されると、それまで各国立銀行がばらばらに発行していた独自の紙幣を止めさせ、紙幣発行を日本銀行の手に集約することが決まった。
「安田善次郎」の名前の入った国立第三銀行の紙幣は特に信用があり、その発行権限を失うと善次郎が最も損をする。そもそも国立銀行設立は、大蔵省が20年間の紙幣発行の権限を与えて、奨励していたのだ。
松方大蔵卿に頼まれて、渋沢栄一が善次郎のところに説明にでかけた。「間違いなくへそを曲げるだろう」と渋沢は覚悟していたが、善次郎は黙って渋沢の説明を聞いたあと、こう言った。
渋沢は、改めて善次郎が国家の利益を優先する高い志操の持ち主だと再認識した。
■6.「心配なさらずとも、私が何とかいたしましょう」
数多く設立された国立銀行の中には放漫経営や松方デフレで立ちゆかなくなった銀行が次々に現れた。そして善次郎のもとには、銀行救済、再建の依頼が引きもきらず寄せられるようになった。
明治24(1891)年、武井守正・鳥取県知事から同県の第八十二国立銀行の救済依頼が持ち込まれた。資本金20万円の4倍もの累積赤字があることから「これはとても私の手に負えません」と善次郎は断ったが、武井の粘り強い依頼に、鳥取にでかけて実地調査だけはしてみることとした。
鳥取についた最初の晩、幼い女の子を連れた老婆が宿を訪ねてきた。聞くと、孫娘の両親は数年前に亡くなって、今は元士族として維新当時に政府から貰った秩禄公債を八十二銀行に預け、その利子だけで細々と暮らしている。銀行が潰れたら、娘の行く末が案じられて、夜も寝られない。どうか助けていただきたい、と老婆は涙ぐんで、頭を下げる。
善次郎は深く心を動かされて、「心配なさらずとも、私が何とかいたしまよう」という言葉が思わず、口を衝いて出た。言った後で、しまった、と思ったが、「ありがとうございます!」と手を合わせて繰り返し頭を下げる老婆に、訂正もできない。
翌日から調査をすると、銀行の内情は思った以上にひどい。断るのが筋だが、それでは老婆への約束が嘘になる。善次郎は意を決した。着々と整理を進め、第三国立銀行と併合させて、その後、安田銀行の一支店とした。現在のみずほ銀行鳥取支店である。
善次郎は、常々側近に次のように言っていたという。
■7.日本経済近代化を支えて
銀行の本来の使命の一つは、一般大衆から預金を集め、それで国家公共に貢献する事業を支えるということだが、善次郎はこの面でも多くの分野で縁の下の力持ちとなった。
その一つに鉄道網の整備がある。日本鉄道会社(現在のJR東北線、常磐線)、両毛鉄道(JR両毛線)、水戸鉄道(JR水戸線)、甲武鉄道(JR中央線)、青梅鉄道(JR青梅線)などは善次郎が出資したり、設立発起人になった鉄道会社である。
善次郎が大阪に行った際に、阪神電鉄の重役数人が、宿を訪ねてきた。大変、厳しい経営状態にあるので、何とか救済してほしい、という嘆願だった。善次郎は厳しい言葉を口にした。
重役たちには返す言葉もない。ただ、国家経済を支える大事な鉄道であるので、善次郎はむげにはしなかった。「私の出す条件を全部受け入れるというのでしたら、お力添えしますが」と助け船を出すと、うつむき加減だった重役たちの顔がぱっと明るくなった。
「安田が支援するらしい」という噂が大阪の市場に伝わると、低迷していた阪神株は急騰し、実際に善次郎がてこ入れを始めると、見る間に業績は回復していった。
■8.浅野総一郎との協力
自らは裏方として、日本経済の近代化を推し進める事業家を後押しすることを任務と考えていた善次郎にとって、「この人物なら」と見込んだのが、同じく富山出身の浅野総一郎[b]だった。
善次郎が後押しした浅野の事業としては、明治29(1896)年、外国航路への進出を目指した東洋汽船株式会社、明治31(1898)年の浅野セメントなどがあるが、さらに大規模な事業が、京浜地区埋め立てによる港湾整備と臨海工業地帯の開発であった。
事業の申請を受けた神奈川県知事は「かかる大計画の事業には、金融機関の確かなる人が連署しなければ許可しがたい」と難色を示したが、善次郎は「事業の方をあなたが引き受けて下さるなら、費用の方は私が引き受けましょう」と請け合った。二人の協力により、日本を代表する臨海工業地帯として発展していった。
善次郎は大正10(1921)年9月28日、83歳にして兇漢に襲われて、惜しくもその生涯を終えた。社会主義的思潮が広まる中で、資本家憎悪の感情にかられ、特に「陰徳を積む」精神から慈善活動のポースを嫌って「ケチ」で通っていた善次郎を標的にしたようだ。
死後、善次郎が東京帝国大学に講堂寄付を申し出て、計画が進んでいたことが明らかになった。遺族は迷わず、善次郎の遺志を実行した。現在の安田講堂である。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a.
b.
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 北康利『陰徳を積む 銀行王・安田善次郎伝』★★★、新潮社、H22
■おたより
■明博さんより
いつも勇気が湧くメルマガをありがとうございます。
下記の安田善次郎氏の言葉が心に響きました。
やはり、なにをするかではなく、「なんのために」が明確な人はブレないと確信しました。
男は男らしく、女は女らしく、日本人は日本人らしく、そんな当たり前のことが当たり前にできる社会にしていきたいと思います。微力ではありますが、「教育」の世界で貢献していきます。
ありがとうございました。
■編集長・伊勢雅臣より
「なんのために」が明確な人はブレない、というお言葉に共感しました。
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