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JOG(154) キリシタン宣教師の野望

 キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とすることを、神への奉仕と考えた。


■1.「立ち帰った」キリシタンたち■

 寛永14(1637)年10月、島原有馬村の二人の百姓が、天草へ行き、そこで「天の使」として布教を始めた益田四郎という16歳の少年(天草四郎)に帰依して、キリシタンが礼拝する絵像を持ち帰り、村人を集めて布教を始めた。

 四郎は習わぬのに文字を読み、キリシタンの講釈を行い、また海上を歩いて見せたという。そして、次のような檄文が流布されていた。

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 キリシタンになり申さぬ者は、日本国中の者ども、デウス様(神)より左の御足にてインヘルノ(地獄)へ、御踏みこみなされ候間、その心得あるべく候。
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 島原・天草地域は、30年ほど前まで有馬晴信、小西行長というキリシタン大名に統治され、領民の多くはかつてキリシタンであった。二人の百姓の布教で、10月23日の一晩だけで7百人あまりの男女がキリシタンに「立ち帰った」という。

 翌日、代官がこの二人を捕らえ、島原城に連行して処刑した。しかし、キリシタンたちは集会を止めず、殺された二人を「天上し(天国に行き)、自由の身になった」と礼拝した。この集会を解散させるために赴いた代官たちを、キリシタンたちは殺害し、「代官、僧侶、神官らを殺害せよ」と近隣の村々へ触状を回した。

 これに呼応して、各地で立ち返ったキリシタンたちが、代官はじめ、僧侶、神官、果ては行きがかりの旅人までを惨殺したり、磔(はりつけ)にした。「島原の乱」の始まりである。

■2.キリシタン大名・有馬晴信■

 そもそも島原の地の旧主・有馬晴信がキリシタンに改宗したのは、現実的な理由であった。近隣を支配する強大な龍造寺隆信に対抗するために、キリシタン大名の大友純忠と同盟する事を決意し、そのために改宗を願い出た、とルイス・フロイスは『日本史』に記している。

 洗礼の意思はイエズス会から派遣されていた巡察使ヴァリニャーノに伝えられ、晴信は領内の寺社を破壊し、領民を改宗させるという約束の上で、洗礼を受けた。ヴァリニャーノは晴信に兵糧と鉛、硝石などの軍事物資を提供して、支援を行った。

 晴信は約束通り、領民たちに宣教師の説教を聞くことを要求し、どうしてもデウスの教えを理解しようとしない者は領国から出て行くように命じた。

 晴信の庇護のもとで、宣教師たちは日本の寺院の仏像を破壊し、仏教徒の目の前で放火したりした。またキリシタンと僧侶の間に争いが起きると、晴信は僧侶を処刑すると脅し、財産を没収した。領民はこれを聞いて震え上がり、たちまち千人を超える人々が改宗したという。

 晴信は宣教師の求めに応じて、領民から少年少女を取り上げ、インド副王に奴隷として送る、ということまでしている。

■3.持ち込まれた悪習■

 こうした仏教・神道迫害は、他のキリシタン大名の領地でも広く行われた。そのために天正15(1587)年、豊臣秀吉は伴天連(バテレン)追放令を出した。その理由は、第一に宣教師による信仰の強制、第二にキリシタンによる寺社の破壊と僧侶への迫害、第三に宣教師たちの牛馬の肉食、第四にポルトガル人による奴隷売買であった。

 日本の在来信仰では、領主が権力や武力を用いて、特定の信仰を領民に強制するようなことはなかった。最初に来日したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは、いちはやくこの点に注目し、日本では男女共に「各人が自分の意思に従って」宗派を選ぶのであり、「誰に対してもある宗派から他の宗派に改宗するように強要することはしません」と報告している。[1,p207]

 同時期のヨーロッパでは、1618年から1648年まで、ドイツを舞台にして周辺諸国を巻きこんでプロテスタントとカソリックが戦った「30年戦争」が起こった。いわゆる宗教戦争の最大のもので、戦場になった地域では敵宗派の住民の虐殺、暴行略奪、住居の破壊などで人口の30パーセントから90パーセントが失われたという。こうした悲惨な経験から、ヨーロッパでは、信教の自由と政教分離といった近代的概念が成立していくのだが、ザビエルの観察に見られるように、これらはすでに当時の日本社会では実質的には実現されていたものであった。

 また、有馬晴信、大村純忠、大友宗麟らキリシタン大名が竜蔵寺や島津との戦争で窮地に陥った時、副管区長コエリョは秀吉に遠征を進言し、そうすればキリシタン領主等を全員結束して、秀吉の味方につけることを約束した。秀吉はこの発言から、イエズス会がキリシタン大名を糾合して、日本の支配者になろうとしているのかもしれない、という警戒を抱いた。実際にコエリョは長崎をマカオやマニラのような植民地拠点にしようという野望を持っていた。[a]

 キリシタン宣教師らは、権力者による信仰の強制、宗教を戦争に利用するというヨーロッパ中世の悪習を日本に持ち込んだのである。

■4.「今から26年後に、必ず『善人』が一人出現する」■

 徳川幕府も慶長18(1614)年、禁教令を出して、「キリシタンの徒党」を追放することを宣言した。その理由は、第一に日本で「邪教」を弘めて日本の国を自分たちの手で領有することを企んでいることであり、第二に「神国・仏国」日本の信仰、道徳、法に反し、罪人を崇めるような非道の行いをしていることであった。「非道の行い」とは、僧侶・神官への迫害や寺社の破壊を指すのであろう。

 有馬晴信の子・直純はこの2年前の慶長16(1612)年から宣教師に領内からの立ち退きを命じ、教会を破壊した。やがて直純は日向に転封され、大半の家臣を引き連れて移住したが、一部に牢人となって残ったキリシタンがいた。

 寛永14(1637)年、天草に山居していた旧・有馬家家臣の松右衛門ら5人の牢人は、26年前に追放された宣教師が書き残した予言を思い起こした。それは次のようなものであった。

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 今から26年後に、必ず「善人」が一人出現する。その「幼い」子は習わないのに文字に精通した者である。その出現の印が天にも現れるであろう。
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 松右衛門ら5人は当時天草にいた大矢野村の益田四郎が、この予言に記された「善人」に間違いないとし、彼を「天の使」として宣伝した。益田四郎は、キリシタン大名・小西行長に使えていたと伝えられる牢人の子であった。

■5.「宗門(信仰)のことで籠城しているのです」■

 従来の歴史研究では、島原・天草での一揆の原因は、キリシタン信仰の迫害と、同地方の領民を苦しめていた飢饉と重税への反発であるとされていた。

 しかし、この説では説明のつかない事実がいくつもある。まず、キリシタン迫害は一揆の26年も前に開始され、10数年前にはキリシタン信仰はほぼ終息していた。キリシタン迫害に対する反発というには、時期が離れすぎている。一揆勢は一度、信仰を捨てたキリシタンたちが「立ち帰った」ものであった。

 また飢饉と重税に対する反発というにも不審な点がある。後で見るように、一揆勢は、同じく飢饉と重税に苦しんでいる民衆にキリシタンへの改宗を武力で強制し、改宗を拒んだ村々には攻撃を加えている。後に籠城した際には、幕府軍から「将軍や島原藩主に何か恨みがあるのか、その恨みに理があるなら和談をしても良い」との矢文に対して、こう答えている。

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 我々は上様(将軍)への言い分もなく、(藩主)松倉殿への言い分もございません。宗門(信仰)のことで籠城しているのです。もし我々に憐みをかけて下さるなら、是非我々の宗門をお認め下さい。
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 確かに、この地方では3年来の飢饉に見舞われていた。そこで思い起こされたのは、天草大矢野でかつて旱魃(かんばつ)に襲われた時、キリシタン住民たちが、3日間の断食と十字架の前での苦行、祈祷を行った所、3度に渡ってたっぷりと雨が降り、救われたという経験であった。イエズス会宣教師は、このことによって「非常の場合はデウスにすがるという必須の信頼」が生じたと記している。

 この事を覚えている百姓たちは、現在の飢饉は、迫害に屈してキリシタンの宗旨を「転んだ」事に対する「天罰」と捉えたのだろう。こういう意識のある所に、「天草四郎」が出現して、キリシタンへの「立ち帰り」が一気に広がったと考えられる。

■6.戦国の遺風■

 10月26日早朝、有馬村をはじめとする7ヶ村の立ち帰りキリシタンらが一斉に蜂起し、島原城下に押し寄せた。戦国時代の気風が色濃く残る時代らしく、各村は自治的に運用されており、一揆方につくか、藩方につくか、判断を迫られた。

 島原に近い安徳村(現・島原市)の村民たちは、荷物を牛馬に載せ、子供たちを抱きかかえて城に避難した。城下町の住民は藩側に味方するとして、武器の貸与を申し入れた。藩側は警戒して、人質をとったうえで、武器を貸し与えた。武士だけでなく、こうして百姓が戦に参加するのも、戦国の遺風である。

 押し寄せた一揆勢は、城下町で放火・略奪を行い、逃げ遅れた女性を拉致した。城下の寺院、神社を焼き払い、住持の首を切り、指物にして、城の大手口に押し寄せた。藩方は城に立てこもり、防戦に努めた。

 26日の晩には、湯江村、多羅良村、茂木村、日見村、西古賀村の住民たちが、藩方に加勢すべく、応援を送り込んで来た。こうした加勢もあって、一揆勢は数日間に渡って城を攻め立てたが、落とすことはできず、それぞれの在所に引き揚げた。

■7.「百姓は草のなびき」■

 有馬地域の村々に立ち帰った一揆勢は、天草四郎に使いを送り、今後は四郎を「キリシタン大将」として従う旨を伝えた。四郎は「自分は大将として方々へ押し寄せ、キリシタンにならないものは誅伐して宗門を守るつもりであるから、どこへ攻めるにも命令には従ってもらう」と指示し、それぞれの村から従軍する人数を申し出るよう、指示した。

 四郎は、長崎に1万2千ほどの軍勢を送って、キリシタンへの改宗を迫り、拒否した場合は放火・殺害を行って制圧し、それから島原城を攻めるという作戦を立てた。長崎は最も近い幕府の拠点であった。

 そこに唐津藩の軍勢が天草に到着し、本渡で一揆勢と交戦したが、惨憺たる敗北を喫し、富岡城に籠城した。唐津藩と言っても、少数の武士に多数の百姓が付き従うという、これまた戦国らしい構成だった。一揆方も多数の百姓が牢人に率いられたものであり、武士対百姓という階級闘争史観では捉えられない構図であった。

 一揆方は勢いに乗って富岡城を攻め立てたが、落とすことはできず、退却した。この様子を見て、今まで一揆勢に荷担していた村々は、今度は手のひらを返すように退却するキリシタンたちに攻撃を加え、多大な損害を与えた。戦国時代には「百姓は草のなびき」と言って、各村とも生き残るために優勢な方に加勢するというのが常態であったが、ここでもそれが見られた。

■8.戦って死ぬことで天国へ行ける■

 天草四郎率いる一揆勢は島原に引き揚げ、12月1日に南有馬地区にある廃城・原城(はらのしろ)に籠城した。その人数は一説に、3万7千人と言われている。ここから翌年2月28日の落城まで、4ヶ月に渡る幕府軍との攻防が繰り広げられる。

 四郎は「それぞれの持ち場をぬかりなく持ち固めよ。そうすれば天国へいけるであろう、しかしそれを怠れば地獄へ堕ちるであろう」と籠城の一揆勢に督戦した。戦って死ぬことで天国へ行ける、という教えである。

 幕府軍は当初、強引な攻撃をしかけて、総大将・板倉重昌が戦死するという大きな被害を受けると、その後は城を包囲して、兵糧攻めにする作戦に出た。上述の矢文のやりとりも、この時に行って、懐柔に出ている。この間に、一揆勢からは約1万人ほどが、水汲みなどで城を出た際に、幕府軍に投降している。

 また平戸にいたオランダ船にも、原城を砲撃させた。この作戦については幕府内からも「外国船を動員するのは、日本の恥」という批判が出たが、作戦を立てた幕府上使・松平信綱は次のように答えている。

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 拙者が異国船を呼び寄せたのは、一揆の指導者たちが、我々は「南蛮国」と通じているのでやがて「南蛮国」から援軍がやってくる、などといって百姓を騙しているから、その「異国人」(つまりオランダ)に砲撃させれば、「南蛮国」さえあの通りではないかと百姓も合点が行き、宗旨の嘘に気がつくのではないか、と思ったからであり、日本の恥になるとは思いもよらなかった。
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 カトリック国ポルトガルからの援軍を頼むキリシタンたちを、プロテスタントのオランダ船が攻撃するというのは、まさに欧州における両宗派の代理戦争という趣である。

■9.持ち込まれた宗教戦争の種子■

 2月28日、幕府軍は総攻撃を仕掛け、原城を攻略した。激しい戦闘で、幕府軍総勢12万人のうち約1万2千もの死傷者を出した。従来の研究では、籠城したキリシタンたちは皆殺しにされたとされているが、「城中の者の生け捕りは多い」などという報告もあり、投降者も少なくなかった。

 翌年の寛永16(1639)年7月、幕府はポルトガルと断交し、国内での徹底したキリシタン取り締まりを命じた。異教徒を殺害し、その寺社を破壊することが神に奉仕する道である、などという中世的思想は、イエス・キリストの本来の教えとは異なるものと推察するが、いずれにしろ、それが欧州における悲惨な宗教戦争の原因であった。

 島原の乱は、欧州から持ち込まれた宗教戦争の種子が突然、日本の地で開花したものであった。それを初期の段階で根絶やしにした徳川幕府によって、以後、江戸日本は「各人が自分の意思に従って」宗派を選ぶ近代的社会を維持し、2世紀以上にわたる泰平の世が花開くのである。 (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(154) キリシタン宣教師の野望
 キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とす ることを、神への奉仕と考えた。
https://note.com/jog_jp/n/ncafe3c1900cc?magazine_key=m84dc4b31d0f6

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

  1. 神田千里『島原の乱』★★、中公新書、H17

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