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JOG(1380) 信長、秀吉、家康は民を「大御宝」として護った ~ 伊勢雅臣新刊『大御宝 日本史を貫く建国の理念』から

 信長の「天下静謐」、秀吉の「惣無事令」、家康の「百姓成立
は戦国時代の戦乱から民を救った。


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■1.幕末に来日した西洋人が見た「大御宝」の国

 伊勢雅臣の新刊『大御宝 日本史を貫く建国の理念』は、先週のお知らせで、お陰様で予約段階にもかかわらず、7/22から「天皇制」のカテゴリーで1位となりました。数日間だけでしたが(^_^;)。
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■伊勢雅臣『大御宝 日本史を貫く建国の理念』(8/1発売。予約受付中)

民を大切な宝物として考え、その安寧を祈る「大御宝」の思想。

神武天皇即位の詔に示され、歴代天皇の責務とされてきた理念が日本の歴史を支えていた!

「大御宝」の知恵と力で日本が直面する第3の国難を乗り越える!
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 再度、トップ奪回を目指して、本号では同書8章、9章で述べた、信長、秀吉、家康の三英傑が、神武天皇の「大御宝を鎮むべし(=民を宝物として安寧に暮らせるようにしよう)」の祈りを、現実政治に実現しようとした志をご紹介しましょう。この三英傑の苦闘があったからこそ、江戸日本は幕末に来日した西洋人が次のように賛嘆した庶民の暮らしを実現できたのです。

   アメリカの初代駐日公使タウンゼント・ハリス

 彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。……これが恐らく人民の本当の姿というものだろう。・・・私は質素と正直の黄金時代を、いずれの国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。[渡辺]

  英国の女流探検家イザベラ・バード

 米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより、鉛筆で描いたように」美しい。・・・実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。[バード]

 足利尊氏の私利私欲に満ちた室町幕府から始まった南北朝と戦国時代の240年近い戦乱を収めたのは、信長-秀吉-家康の3英傑の苦闘でした。3英傑は自らの権力欲から「天下取り」を目指したのではありません。戦国大名たちの割拠でバラバラになった国家の統一を再建し、天皇の「民安かれ」の祈りを実現しようとしたのです。その結果がハリスやバードが賛嘆した庶民の幸福な暮らしでした。

■2.信長の「天下静謐」

 信長の有名な「天下布武」という言葉は、「武力で全国を制圧する」というように解されてきましたが、最近の歴史研究では、これは「将軍による畿内の秩序回復」であると解明されてきました。そして、この「天下布武」は信長が将軍・義昭を連れて入京した永禄11(1568)年に実現したと言えます。そして、「天下布武」達成後の信長の政治的目標が「天下静謐」でした。

「天下静謐」とは、まさに神武天皇の「大御宝を鎮むべし」に通ずる理想です。しかし、戦乱の世には天下静謐を妨げる勢力が多々あり、信長はそれらを一つずつ排除しなければなりませんでした。たとえば、信長は永禄13(1570)年正月、諸大名に上洛(上京)をうながす文書を出しました。


禁中御修理や幕府の御用、そのほか天下いよいよ静謐のため、来る中旬には参洛(伊勢注:上京)すべきである。おのおの上洛し、将軍にご挨拶を申し上げ、働きを示すことが大事である。これを先延ばしにしてはならない。[金子]

 越前の朝倉義景はこの上洛命令を無視しました。そこで信長は、その年の4月、義景を攻めるため越前に兵を出しています。

 天下静謐のためには、天皇と将軍がそれぞれの役割をしっかりと果たさなければなりません。天正4(1576)年に起こった興福寺の首座である別当の選任の問題にまつわる朝廷内の混乱については、信長は、朝廷内のことは天皇とその側近がしっかり判断をしてくれなくては「天皇の威信が失われます」と苦言を呈しました。

 一方、将軍・義昭に関しては、天皇や朝廷をお支えするのに怠慢であること、幕府に備蓄されている米を売却して金儲けしたこと、など私利私欲に満ち満ちた行為を「十七箇条意見書」で諫め、義昭が行いを改めるどころか、2度も信長に敵対の兵を挙げたので、ついに追放します。こうして「天下静謐」への志を持たない足利幕府は自滅したのです。

■3.「天下静謐」を乱す武装宗教勢力だった石山本願寺や比叡山

 一向宗弾圧や比叡山焼き討ちを、「革命児」信長の中世的宗教勢力打破と捉えるのは、信長の志を曲解しています。両者とも「天下静謐」を妨害する武装勢力でした。

 まず、一向宗には一神教的な面があり、国全体を掌握した加賀では天台・真言・禅・法華など他宗には本願寺教団への転向を強要し、また百余りの神社を破壊して、神器・宝物を奪い取ったりしていました。

 一向宗の頂点をなす石山本願寺の顕如(けんにょ)は武田信玄とは姻戚関係にあり、その子・教如(きょうにょ)は朝倉義景の娘と婚約していました。その関係で、一向宗徒も反信長陣営に立ったのです。宗教者というより戦国大名の振る舞いです。

 信長は石山本願寺とは11年間も戦いましたが、その戦いも忍耐強いものでした。神田千里・東洋大学教授の『織田信長』はこう記述しています。

 織田信長は、自分に対して決起した本願寺と一向一揆に対し、三度にわたって、少なくともその存続を認める形で対処しているのである。……天正八年の和睦以降、織田政権と本願寺との両者は友好関係にあった。[神田]

 比叡山も、朝倉氏や浅井氏に味方して、信長に武力で抵抗していました。信長は焼き討ちの前年、比叡山にこう通告しています。

 信長に味方すれば分国中の山門領をもとの通り返還しよう。また出家として一方の贔屓はできないというなら中立を守ってほしい。どちらをも背くなら根本中堂以下を焼き払う。[神田]

 一向宗も比叡山も、宗教者の立場を逸脱して、「天下静謐」を乱す戦国大名のように振る舞っていたので、信長は打破したのです。

 信長は宗教本来の活動を行う、平和的な宗派は保護していました。安土城下の繁栄のために浄土宗の浄厳院(じょうごんいん)や西光寺(さいこうじ)を誘致し、日蓮宗の所領を保護したりしています。
 

■4.秀吉による「惣無事令(そうぶじれい)」

 信長が明智光秀の謀反で倒れると、天下静謐の志は、秀吉に受け継がれました。天正13(1587)年、関白となっていた秀吉は、全国の大名に戦いの中止を求める「惣無事令」を出しました。そして、その一環として九州北部まで攻め上がっていた島津義久らの九州諸大名に停戦命令を発したのです。

 成蹊大学・池上裕子名誉教授は著書『織豊政権と江戸幕府 日本の歴史15』(講談社刊)で、秀吉の主張をこう解説しています。

 そこではまず何よりも天皇の命令であることを前面に出して、「関東から奥州の果てまで天皇の命令に従い静謐(平和)なのに、九州で今も戦争が続いているのはよろしくない。国郡の境目の相論は、秀吉が双方の言い分を聞いて裁定する。まず双方とも戦争をやめよ。これは天皇の意向だから従わない者は成敗する」と述べている。[池上]

 薩摩の島津義久は「島津家は頼朝以来の名門である」として、秀吉のような由緒不確かな人間には従わず、かえって武力で九州のほとんどを占領しました。典型的な戦国武将の手口です。

 そこで、秀吉は後陽成天皇の勅命を戴いて、天正15(1587)年3月に数万の大軍を出し、島津の軍を打ち破りました。島津義久は剃髪出家して秀吉のもとを訪れて謝罪し、秀吉は一命を捨てて降伏したので赦免するとして、「薩摩一国をあてがう。今後は叡慮(天皇のおもんばかり)を守って忠功を励むように」と伝えました。

 ひとたび朝廷に敵対しても、心を改めて今後は天皇に従うと誓えば許し、その者が生きる処を与える、というのが、かつての大国主命(おおくにぬしのみこと、第二章)や蝦夷(えみし、第五章)でも見られた慣行です。敵対する相手も大御宝であり、とことん打倒してしまっては、恨みを遺して平和な国家は築けないという皇室の伝統的理想を、秀吉はよく継承していました。

■5.非武装農民が安心して暮らすための「検地と刀狩り」

 乱世を終わらせるために、秀吉はさらに「検地と刀狩り」を実施しました。その狙いを理解するためには、当時の農村の実態を見ておく必要があります。戦国時代には貴族や武士が武装農民を巻き込んで戦う私闘が絶えませんでした。村どうしが土地の縄張りや水源の取り合いで戦うこともありました。

 人口数万程度のある小さな地域でも、合計3000本以上の刀、脇差、槍、小刀が没収されたとの記録が残っています。秀吉の惣無事令は大名間の争いだけでなく、百姓にいたるまですべての階層での合戦・私闘を禁じていました。その政策の一環としての刀狩りなのです。

 言わば、刀狩りとは、アメリカの西部劇に出てくるような無法暴力社会から脱して、現代日本のような非武装の民が安心して暮らせる社会を目指した政策でした。それは「大御宝を鎮むべし」という理想を実現する上で不可欠の前提だったのです。

 さらに農村での争いや役人の不正を減らすためにも、土地の所有権の明確化、年貢の適正化のための米の出来高の設定、さらにはそれを行うための度量衡の統一が必要となりました。戦国の世を終わらせ、平和な国家社会を築くには、武力で天下をとるだけでは不十分で、こうした検地や刀狩りで、争いの芽を摘んでいく施策が必要だったのです。

■6.徳川幕府の「百姓成立」

 信長の「天下静謐」、秀吉の「惣無事令」を受け継いで、平和な統一国家を完成させたのが家康です。

 家康は慶長8(1603)年2月に征夷大将軍に任ぜられると、翌月には最初の法令として「郷村(ごうそん)法令」を出します。これは農民に対して、もし領主や幕府代官に「非分(不法行為)」があったら、直目安(家康への直訴状)を出しても良い、という農民保護を目的としたものでした。安定した法治社会を築くことで、「大御宝を鎮むべし」を実現しようとしたのです。

 徳川幕府の統治目標を表したのが、「百姓成立(ひゃくしょう・なりたち)」という言葉でした。領主は百姓の生活が成り立つよう保証する責務があり、百姓はそれに応えて年貢を「皆済(かいさい)
」(すべて納めること)する義務があるという、双務的な原則でした。現代の政府が国民の生活を守り、国民は税金を納めるというのと本質的には同じです。

 幕府や藩が、腐敗や失政によって「百姓成立」の責務を果たさない場合には、農民たちは「百姓一揆」によって、抗議をしていました。それは戦後左翼が言うような農民による階級闘争ではなく、現在のストライキと同様の集団交渉でした。

 江戸時代に発生した百姓一揆は1430件ありましたが、そのうち一揆で役人を殺害した事例はわずか一件にすぎません。百姓の掲げる鍬や鋤は暴動のためではなく、「百姓のシンボル」であり、「自分たちが百姓身分を逸脱していない」というアピールでした。

■7.「平和の配当」による江戸前期の「高度成長」

 徳川幕府の平和と安定の政策により、戦国時代には軍事に向けられていた国民のエネルギーが、経済発展に向かいました。幕府は当初、豊臣政権の「七公三民(収入の7割を税徴収)」の税率を踏襲しましたが、それらは城下町の建設、陸路・海路の交通網整備、河川堤防の建設、新田の造成など、大規模な社会インフラ整備に使われました。

 そしてそれらが終わるとただちに、大減税を敢行したのです。4代将軍家綱の頃には、「三公七民」と逆転していました[西尾]。いわば、戦国時代の後の「平和の配当」です。

 これにより、我が国は空前の高度成長期を迎えました。江戸幕府創設の直前、1600年の日本の人口は12百万人だったのが、1721年には31百万人と2.6倍にもなりました。生活水準も向上し、平均寿命も延びたのです。(西尾前掲書)

 この間の耕地は、225万ヘクタールから296万ヘクタールへと、1.3倍の伸びです。1.3倍の土地で、2.6倍の人口を養っていたのですから、土地生産性は2倍となったのです。

 歴史の教科書の中には、江戸時代に飢饉ばかりが続いたかのように記述しているものがありますが、それは江戸時代の後半、人口が3千万を超えて列島の人口収容能力が限界に達し、また米作が北限の東北地方まで普及していたところに、気候寒冷化が襲ったためです。飢饉を階級的搾取の結果とするマルクス主義史観では、江戸時代前期の高度成長を説明できません。

 江戸時代後半は人口を抑制し、その中で人々は村落の自治と相互扶助、寺子屋での教育など、生活の質の向上を進めていきます。その結果、平均寿命では西欧を凌駕し、また民衆の識字率では世界ダントツの社会が築かれました。その実態に触れたハリスやバードが冒頭のような賛嘆を残しているのです。

 神武天皇の即位の際の「大御宝を鎮むべし」の詔を、我が国の為政者たちは各時代の様々な課題に取り組みつつ、実現すべく苦闘を続けてきました。その努力が大きく実を結んだのが、信長-秀吉-家康の3英傑によってもたらされた江戸時代だったのです。

 本編では、『大御宝 日本史を貫く建国の理念』の第8章、9章のごくさわりだけをご紹介しましたが、ぜひ本書をお手にとって、聖徳太子、天智天皇、天武天皇、聖武天皇、行基、桓武天皇、菅原道真、藤原道長、源頼朝、北条泰時、北条時宗、後醍醐天皇、楠木正成などが、「大御宝を鎮むべし」との祈りを現実政治の中で活かそうと続けてきた苦闘の跡を辿っていただきたいと思います。

 そこから、現代の我々もその祈りを継承し、より良い日本を子孫に残そうという志が育っていくでしょう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

・伊勢雅臣『大御宝 日本史を貫く建国の理念』、扶桑社(8/1発売。予約受付中)

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

・バード、イザベラ『日本奥地紀行』★★★、平凡社、H28

・金子拓『織田信長 〈天下人〉の実像』★★★、講談社現代新書、H26

・西尾幹二編集『地球日本史2』★★★、扶桑社文庫、H13

・渡辺京二『逝きし世の面影』★★★、平凡社、H17

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