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JOG(1301) 伊能忠敬~日本全国測量、その出発前の愚直な歩み

 日本全国の測量と地図作成という偉業は、その出発前に一歩一歩自らの立場を愚直に築いた準備から生み出された。


■1.「日本の国は、このように美しいのか」

 伊能忠敬が寛政12(1800)年に半年ほどかけて、蝦夷地(北海道)を調査した第一次測量の結果を地図にまとめると、その地図を見た幕府役人たちは目を見張りました。

「日本の国は、このように美しいのか」

 地図には水彩画のタッチで、山や川、湖、村や町、城が描かれていました。忠敬は正確な測量とともに、「見て楽しむ地図」を心がけていたのです。地図の出来映えに満足した幕府役人は、「次は、伊豆から奥州東海岸の測量をせよ」と命じました。「見て楽しむ地図」を作った忠敬の狙い通りの展開となりました。

 忠敬が幕府の指示のもとに全国測量を行ったのは、幕府からの資金をあてにしていたからではありません。初めのうちは、宿泊も測量機械を運ぶ馬も、ほとんど自弁で行っていました。

 ただし、一介の百姓上がりの隠居が、各藩の領内に入り込んで、勝手に測量することなど、許されなかった時代です。したがって、初期の測量は、幕府が形ばかりの費用しか出さずとも、とにかく幕府の公認を得ている、という形をとる必要があったのです。

■2.国防の基礎としての測量

 一方、幕府首脳部では、南下するロシアの脅威を意識して、北辺の防備をいかに固めるか、という問題意識から、そのためには北辺の正確な地図が必要だ、という認識が高まっていました。

 寛政9年(1797)には、ロシア人が択捉島に上陸したので、幕府は急いで近藤重蔵らを探検隊として送り、択捉島に「ここは大日本の領土だ」という標柱を立てさせました。しかし、当時はまだ北海道から北方領土にかけての地形、地勢もおぼろげながらしか分かっておらず、そもそもどこをどう守るべきか、の戦略も立てられません。

 しかし、地図づくりの適任者もなかなか見つかりませんでした。「幕府が蝦夷地の測量を始めるかも知れない」と聞いた忠敬は、幕府の天文方(天体観測と暦の研究)を勤めていた師の高橋至時(よしとき)に、自分を推薦して貰いました。しかし、「一農民が、何人もの大名の領地に入って、いろいろと測量することは大きな反発を招きますぞ」と反対する声も根強くありました。

 高橋至時の熱心な交渉で、幕府は「公儀お声掛かり」という身分と測量費用20両だけを与えて、忠敬の測量を許可しました。「公儀お声掛かり」とは、「当人が測量をやりたいと言っているので認める」という「公認」に過ぎず、また20両では全体の費用のごく一部にしかなりません。それでも忠敬は「結構でございます」と平伏しました。

■3.各藩の非協力

「公儀お声掛かり」の資格は得ましたが、幕府から各藩や現地の役人に出されたのは「添えぶれ」という書状で、これは指示でも命令でもなく、「この者がそこを訪ねたら、人足や馬を用意してやって欲しい」という程度の、いわば希望でしかありませんでした。

 これが2回目の測量では「先触れ」という「指示」に変わりましたが、それでも各地の役人がきちんとその通りしてくれたわけではありません。たとえば小田原の西の根府川(ねぶがわ)では、関所役人から「手形をみせろ」と要求されました。

 忠敬は「そんなものはない。先触れが来ているはずだ。わたしは幕府の役人だ」と言いつのると、役人はせせら笑って「先触れには、おまえは百姓町人だとしてある。百姓町人は手形が必要だ」と言います。

 こういう無理解、非協力を忠敬は何度も経験しています。そこであらかじめ用意してあった「幕府御用」の旗を従者に高々と掲げさせ、整然と関所を通り抜けて行きました。関所の役人は呆気(あっけ)にとられ、黙って見送りました。

 また、ある時は、大名の参勤交代の一行が宿のすべて占有していて、忠敬一行は宿泊を断られたこともありました。

 忠敬は55歳の時から71歳の時まで、16年間、10次に渡って、日本全国の測量を続けました。その肉体的な労苦も大変なものでしたが、前半の苦労は、こうした各地の役人の官僚主義との戦い、地図作成への無理解、非協力との戦いにありました。

■4.将軍家斉の感嘆

 こうした苦労がようやく払拭されたのは、最初の測量から5年も経った文化元(1804)年のことでした。忠敬が献上した「日本東半部沿海地図」、畳70畳ほどにも及ぶ地図が江戸城の大広間に広げられ、第11代将軍家斉(いえなり)の上覧に達したのです。

 家斉は、地図の縁をそって歩きながら「うむ、見事だ」「なるほど、この地方はこのような形をしていたのか」と、いちいち頷(うな)きながら、感嘆の声を発しました。

 この直後、忠敬は幕府に呼び出され、天文方の正式役人に任ぜられ、十人扶持(10人分の米支給)を与えられました。そして西日本の地図をつくることを命令され、さらに「老中の命令」として、沿道の諸藩・奉行には忠敬の測量隊を援助し、宿駅には必要な人馬を提供するよう伝えられました。

 また、この頃になると、各大名家も国土防衛の重要性に目覚め、その基礎となる地図づくりが急務であることを理解してきました。土佐藩、薩摩藩、日本海側の浜田藩(島根県)などは、積極的に協力しました。

 これも、忠敬が、様々な悶着にくじけることなく、一歩一歩、地図づくりを続けて、その実績で幕府要人を説得し、自らの立場を築いていったからです。

■5.数学の才能を開花させた積極性

 一歩一歩、自分の立場を築いていく、という姿勢を、忠敬は地図づくりを始める、はるか以前から持っていました。

 たとえば、子供の頃、上総(かずさ)国小関村(千葉県九十九里町)で庄屋をやっていた家には、よく幕府の役人たちが来て、年貢のことでソロバンを弾きながら、親と相談していました。その様を飽きもせずに見ていた忠敬に、役人が「坊主、どうだ? 計算方法を教えてやろうか」と声をかけると、「はい。ぜひ教えてください」と、目を輝かせました。

 戯(たわむ)れに計算方法を教えると、忠敬はすぐに理解し、覚えてしまいました。驚いた役人は「坊主、お前は計算の才能がある。常陸(ひたち)国土浦の寺に、数学の得意なお坊さんがいる。一度、訪ねてみたらどうだ?」と言ってくれました。

 忠敬は心を震い立たせて、60キロも離れた隣国の寺を訪ねていきました。そのお坊さんは忠敬が本気かどうか試すために、計算の問題を出しました。それを簡単に解いてしまったので、住職はまじまじと忠敬を見つめて「なるほど、私を訪ねてきただけのことはある。しばらく、私のところで勉強しなさい」と言ってくれました。

 半年も住職の許で学ぶと師の力を越えてしまい、「もう教えることはない。もっとすぐれた師を探しなさい」と言われたのです。

 天文学にしろ、測量にしろ、数学が基本です。忠敬はその才能に恵まれていたのですが、子供ながら知らない土地のお寺に行って、物怖じせずに弟子入りをお願いする、という積極性が、数学の才能を開花させたのです。

■6.伊能家の家業を立て直し、飢饉から村人を助ける

 忠敬は17歳で、縁あって下総(しもふさの)国香取郡佐原村(現・千葉県香取市)の伊能家に婿養子として迎えられました。伊能家は酒、醤油の醸造などに携わる名家でしたが、近年、当主が次々と早死にして、家業は傾いていました。

 忠敬は伊能家の当主として家業立て直しに成功します。また天明の大飢饉では、関西方面から大量の米を買い入れて貧民に配り、佐原村からは一人の餓死者も出しませんでした。こうして村人のために尽くすことで、世のため人のために仕事をすることの達成感、生きがいも知ったことでしょう。

 後に、蝦夷地の測量に取りかかることができたのも、大半の費用を家の財産から自弁できたからです。普通の人なら、幕府からごく一部しか負担しない、と言われたら、それでは無理だと話は終わっていたでしょう。

 忠敬は伊能家の家業を立て直して巨額の財産を残し、しかもその人徳から家人も周囲の人々も、忠敬がお国のための測量に使うのも当然だと、考えていたようです。

 隠居後に全国測量という大きな仕事に取りかかれたのも、隠居前から家業に精を出し、相当の財産を作り上げていたからです。全国測量という難事業をこなした労苦もさることながら、前半生でそれに乗り出せるだけの立場を築き上げたことが、偉業を成し遂げた前提条件でした。

■7.幕府天文台の器械整備にも貢献

 忠敬が隠居して、幕府天文方の高橋至時の許に「門人にしてください」と尋ねたのは、51歳の時でした。高橋至時はこの時三十二歳でしたから、親子ほどにも年の離れた老人の申し出に驚いたに違いありません。

 しかし、忠敬にとって、そんな年の差など、問題ではありませんでした。自分よりどんなに若い人でも、自分が求める学問の先達は師であり、その人から学ぶことは当然だという姿勢です。子供の頃に、60キロも離れた隣国の、見ず知らずのお坊さんに数学を教えてもらいに行ったのと同じ積極性を、忠敬はこの年になっても失わずにいました。

 隠居後、高橋至時に弟子入りして天文学の研究に打ち込みますが、忠敬は私財を投じて、自分なりの天文台を作り、高価な観測器械を次々に買い込みます。これも前節で述べたように、忠敬自身の努力で財を築き、周囲の理解を得ていたからです。

 さらに「伊能さんの天文台のほうが、幕府の天文台より器械が揃っている」という師・高橋至時の言葉を聞いて、忠敬は幕府天文台の器械の整備にも取り組みます。至時に「弟子の伊能さんがそこまでやることはない」と言われて、忠敬は微笑みながら、こう応えました。

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 私は老齢の身で、先生方にご迷惑をかけております。若ければもっと学問が進むのでしょうが、やはり年で頭が硬くなっています。せめてお詫びのしるしにこのくらいのことはさせてください。先生方からみれば、始末に負えない弟子でしょうから。[童門、2003]
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 こんな冗談を言いながら、幕府天文台の器械整備にも私財をつぎ込みます。後に幕府に蝦夷地測量の申し出ができたのも、師である高橋至時の推挙があったからですが、師が使う幕府天文台にまで惜しまずに私財を投ずるという無私の姿勢があればこそ、師の推挙もひとしお熱が入ったでしょう。

 また、蝦夷地測量の申し出を受けた幕府役人も、忠敬が幕府天文台にも多額の寄付をしている事は高橋至時からも聞いていたでしょう。

 農民上がりの隠居に、幕府の蝦夷地測量を任せるという事には幕府内の反対の声も根強かったのですが、なんとか「公儀お声掛り」という形ばかりの許可だけでも得られたのは、この貢献があったからでしょう。

■8.一歩一歩踏みしめながら、見えてきた高嶺

 こうして見ると、全国地図の作成という忠敬の偉業は、測量での老骨にむち打つ肉体的労苦だけではなく、子供の頃に数学を学び、婿入りしては伊能家の立て直しと蓄財、村の救済、隠居してから息子ほどもの年の高橋至時への弟子入り、幕府天文台の器械充実への貢献と、偉業に取り組める立場まで一歩一歩歩んで来たからだ、という事が分かります。

 しかし、この一歩一歩、地道に歩んでいた際には、決して全国地図の作成という究極の目標が見えていたわけではありません。隠居して天文や測量に本格的に取り組もう、と決心したのは、前妻が亡くなって、後妻として迎えたノブの一言からでした。

 ノブは、忠敬が天文学や暦の本に読みふけり、夜になるとよく外に出て星の運行を眺めている姿を見て、ある日、こんな事を言いました。
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 あなたは、本当はやりたいことがおありになるのではないですか?[童門、1675]
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 驚いて見返した忠敬に、妻は微笑んで続けました。
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 伺ったところでは、ずいぶんと佐原のためにお尽くしになりました。家業ももう揺るがないほどに安定しております。思い切ってご隠居なさり、その本当にやりたいことをなさったらいかがですか?
 父は医者でございましたから、患者によくこんなことをいっておりました。やりたいことをやらないことが、いちばん体に毒だ、と。[童門、1675]
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 この一言から、忠敬は隠居して、本格的に天文学に取り組もうと決心したのです。

 逆に言えば、忠敬の一歩一歩は、初めから全国測量という高嶺を目指して歩んだものではありませんでした。婿入りした伊能家の立て直し、名主として佐原村の村人たちの救済など、目の前のやるべき事を愚直に一歩一歩取り組んでいった過程で、全国測量の高嶺が見える岡まで上り、そこからさらに高嶺を目指して、一歩一歩、歩んでいったのです。

 600以上の農村を立て直した二宮尊徳は、「積小為大」を説いています。偉大な事業を成し遂げるには、小さなことをコツコツと積み上げるしかない、という意味です。忠敬の人生も、まさにこの考えを実践したものと言えましょう。

 日本全国の地図作成のために、忠敬は17年間で4万キロ、地球一周分ほど歩いたといいます。しかし、その出発前に、忠敬はすでにそれに匹敵する距離を一歩一歩歩んだからこそ、出発点に立てたのです。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

・JOG(0302) 間宮林蔵の樺太探検(YouTube版)
 ロシア艦来襲時の敗走者との汚名をそそぐべく、林蔵は命をかけた樺太探検に乗り出した。
https://youtu.be/QxfmOtA1_Ig

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ロシア軍艦が北方の日本番所を襲った事件から起きた日露外交危機に、二人は立ち向かった。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201902article_5.html

・JOG(293) 川路聖謨とプチャーチン ~ 幕末名外交官の激突
 通商と国境策定の問題を激しく論じ合う二人の間にひそかな共感が芽生えていった。
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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・童門冬二『伊能忠敬』★★★、河出文庫(Kindle版)、H26
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