JOG(043) 孫文と日本の志士達
中共、台湾の「国父」孫文の革命運動を多くの日本人志士が助けた。
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■1.国父孫文の生誕百年式典に招かれた日本人志士遺族■
中華人民共和国、台湾の両方から「国父」として、今も尊崇を受けている孫文は、革命家としての30年のうち、のべ約10年を日本で過ごした。その間、多くの日本の志士と友情を結び、中国の為に一命を捧げた日本人志士も少なくない。
■2.宮崎滔天との出会い■
19世紀末の清国は、600万人足らずの満洲人が政府高官や軍幹部を独占して、4億人の漢民族を支配する専制国家であり、200年の泰平に馴れて、政府は腐敗しきっていた。孫文は日本の明治維新をモデルに、漢民族による近代的独立国家を作ろうと、「滅満興漢」を掲げて、1895年(明治28年)広東での最初の武力蜂起を行うが、失敗、海外に高飛びした。
この孫文に目をつけたのが、日中提携によるアジア独立を目指していた宮崎滔天であった。滔天は、横浜に潜伏していた孫文を見つけ出し、語り合った。
と述べる孫文の悲壮の語気に、滔天は、
と後に記している。孫文もまた初対面の滔天の印象を「他人の急を救わんとのこころざしやみがたき…現代の侠客」であると評した。 [1,p33]
宮崎滔天を通じて、孫文は日本の政府高官や志士達に紹介され、人脈を築いていく。後の政友会総裁、首相の犬養毅、アジア各国の独立を支援した頭山満などの知己を得た。
この頃から、孫文は「中山」と号するようになった。日比谷公園近くの中山忠能公爵(明治天皇のご生母・中山慶子の父)邸の前を通ったとき、その表札を見てつけたという。この号が、今や台湾の大通りの名になり、また生まれ故郷が中山市と改称されたいわれになっている。[2,p275]
■3.中国・台湾で祀られた日本人志士■
孫文の革命への志に深く共鳴した一人に山田良政がいた。日本によって上海に建てられた東亜同文書院の教授をしていた山田は、1900年(明治33年)、孫文とともに広東省恵州で兵を挙げるが、捕らえられ、殺害される。中国革命のために一命を捧げた最初の日本人となった。
孫文は山田の死を悲しみ、郷里弘前市に建てられた碑に、次のような文を寄せた。
1927年(昭和2年)11月4日、中国国民党は山田良政の建碑を議決し、孫文の眠る南京、中山陵に建立した。
台湾の忠烈祠には、後の中華民国のために命を捧げた33万人の将兵が祀られている。日本軍との戦闘での死者も多い。その中で山田良政はただ一人の日本人として、今もここに祀られている。
■4.東京での中国革命同盟会結成■
1905年(明治38年)、日露戦争における日本の勝利は、アジアの人民に独立への大きな希望を与えた。清国からも、2万人とも3万人とも言われる留学生が日本にやってきた。孫文は滔天らの支援を受け、「中国革命同盟会」を結成し、約3千の会員を集めた。
法政大学に留学中であった汪兆銘も参加し、機関誌「民報」の編集に携わった。民報は留学生や本国の青年達に革命への情熱を点火した。当時、湖南で農民であったまだ十代の毛沢東も日本で発行された民報の愛読者だったといわれる。[1,p47]
(汪兆銘は、その後、日中戦争中に反共親日の和平運動を起して、蒋介石に対立し、40年に南京国民政府を樹立した人物である。)
しかし清国は日本が革命運動の温床となっていることから、清国人学生の取り締まりを強く要求し、日本政府はこれを受け入れた。 日本人志士達は強く反対したが、憤慨した数千人の留学生は帰国し、これが後年の中国での排日運動の原因となったと言われている。
■5.中華民国の成立■
1911年(明治44年)武昌での革命軍蜂起が成功すると、これに呼応して、全18省のうち、15省で革命が成功した。辛亥革命である。武昌での蜂起に加わっていた日本人志士約20名のうち、数名が死傷した。
日本人志士はさらに陸続と集まって、辛亥革命に参加した。北一輝はこの時、参謀役として働いている。山田良政の弟純三郎と滔天は、香港にいた孫文を出迎えにいった。
滔天らに迎えられて、1912年(大正元年)1月1日、南京に入った孫文は、大総統として、この日を民国元年とし、列国に向かって、中華民国の成立を宣言した。犬養毅、頭山満の両巨頭を始め、滔天その他の多くの志士たちも総統就任式に参加し、感激を分かち合った。
■6.桂首相との日支協力の密約■
その年の12月に桂太郎による第3次内閣が組閣された。滔天は政界の陰の実力者秋山定輔を通じて、桂首相に孫文との協力を説いた。孫文は国賓として来日し、桂首相と語り合う。その結果、
・新支那の建設は孫文にまかせる。日本は孫文の新政権を支援し、 日支協力して、満洲を共同開発する。
・日支協力してダーダネルス海峡以東のアジア民族の自立達成(解 放)に助力する
などの密約を交わした。日本と中国が相協力して、アジア独立のために立ち上がるという孫文や滔天の大アジア主義が、両国の正式な政策として採用されたかに見えた。
しかし、桂太郎はまもなく急死し、孫文も袁世凱にその地位を奪われて、失脚した。こうして日支提携密約は実現しなかった。孫文は東京で、犬養、頭山、宮崎らの助力を得て、1914年(大正3年) 中華革命党を結成する。まことに不屈の革命家ではある。
1923年に孫文がある日本人に語った言葉である。[1,p61] 以後の孫文はソ連からの協力を得る方向に傾いていくが、孫文は日本との提携を諦めてはいなかった。しかし、共産主義勢力という新たな攪乱要因も登場して、日支提携の望みはますます遠ざかっていく。
■7.大アジア主義と東洋王道文化■
1924年軍閥間の争いに乗じて、馮玉祥は北京を占領すると、孫文を大総統に迎えた。孫文は上海から北京に向かう途中で、わざわざ日本に寄り、神戸高等女学校で「大アジア主義」と題した有名な講演を行い、こう述べている。
翌年3月12日、孫文は北京で肝臓癌のため、59歳の生涯を閉じる。身命を抛(なげう)った志士の一人、萱野長知が病床に呼ばれた。孫文は「犬養先生、頭山先生は、お元気か」と聞き、さらに「わしが神戸でのこした演説は日本人にひびいたか、どうか?」と問うたという。
孫文を国父として祀るために、南京に中山陵が作られた。1937年(昭和12年)、日本軍は上海から南京を攻略したが、その時の総司令官は松井石根大将であった。松井大将は孫文とも親交があり、大アジア協会を作って、日中提携を唱えていた。松井大将はこの戦争が長く日支間の相互怨恨の因とならぬよう民衆の慰撫に腐心した。 特に中山陵に戦火が及ばないよう厳命し、それを楯に抗戦する支那兵もいたが、なんとか保全に成功した。
松井大将は帰国後、私財を投じて、熱海・伊豆山に興亜観音を建立し、日支両軍の犠牲者の冥福を祈り、アジアの興隆と世界平和を朝晩祈念していた。しかし敗戦後の東京裁判では「南京での司令官として兵士の虐殺暴行に対して,十分に効果的な措置をとらなかつた」という訴因で死刑に処せられたのである。
孫文の革命への志と、それを助けた滔天ら日本人志士は、錯綜する中国動乱の歴史の谷間にささやかな友情の花を咲かせた。今後、日中両国が真の友好関係を作り上げるためには、かつて芽生えたこの友情を思い起こす所から始めるのも一つの道であろう。
(文責:伊勢雅臣)
[参考]
1.アジア独立への道、田中正明、展転社、平成3年
2. 台湾と日本・交流秘話、許国雄監修、展転社、平成8年
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