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JOG(717) 黒船来航の舞台裏

 アメリカは中国市場での権益を確保するために、太平洋ルートの開拓を目指した。


■1.「日本開国提案書」

 1849年9月17日、ニューヨークの法律家アーロン・パーマーはジョン・クレイトン国務長官に『改訂日本開国提案書』を提出した。5ヶ月前に提出した提案書の改訂版である。この3年後に、ペリーの「黒船」が日本にやってきて、武力をちらつかせつつ開国を迫るが、その発端となったのがこの提案書だった。

 パーマ-は、日本政府への要求事項として、漂流民の人道的保護、捕鯨船の緊急避難と補給修理を挙げ、これらの条件を最後通牒として突きつけること、そして日本が要求に応じない場合に備え、特使には江戸湾封鎖の権限を与えることを提案している。

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 首都への物資の供給が途絶えれば、われわれの条件を呑むことは間違いない・・・日本はすべての点で脆弱である。勇敢で好戦的な民族であるが、わずか一隻のフリゲート艦の攻撃に対する防御もできない。[1,p147]
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 漂流民の保護や捕鯨船の緊急避難・補給修理といったごく「人道的な」要求を掲げながら、江戸湾封鎖という「非人道的な」強硬姿勢を示しているのはなぜか。

 その理由は、要求の末尾に加えられていた「サンフランシスコ-上海間を結ぶ蒸気船の石炭補給基地を提供すること」という一項が暗示している。

■2.「19世紀におけるアメリカ最大のドラッグ犯罪組織」

 当時の清国との貿易は英国が中心的な地位を占めていた。特にアヘンの販売では、清国政府の年間歳入の三分の一以上の売上をあげており、膨大な利益を得ていた。清国はアヘンの輸入を止めようと、1840-41年に英国と戦ったが、このアヘン戦争に敗れ、イギリスの半植民地に転落していく[a]。

 そのイギリスの陰に隠れて、実はアメリカの商社もアヘン貿易で膨大な利益を上げていた。後に、ペリーは日本への開国を迫った第一次来航の後、翌年の再訪までの間、マカオではラッセル商会の共同経営者であり、広東副領事も務めていたダニエル・スプーナーの邸宅によく宿泊した。

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 彼らはマカオに邸があるのだが、零丁(れいてい)島近くに泊めてある倉庫用の船にも豪華な部屋を所有している。ここを通じて年間2百万ドルから3百万ドルの売上があるという。[1,p187]
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 ペリー艦隊を訪れたアヘン商人からの情報である。ラッセル商会は「19世紀におけるアメリカ最大のドラッグ犯罪組織」と評され、その密売利益はアメリカに持ち込まれて、その一部がエール大学、プリンストン大学、コロンビア大学などに寄付されている。

 アヘンの密売を「フェアーで名誉ある合法的なもの」と弁護したラッセル商会のウォーレン・デラノは、日露戦争の停戦を仲介した第26代セオドア・ルーズベルト大統領の祖父であった。そしてその従弟にあたるのが、蒋介石に肩入れして、日本を対米戦争に追い込んだ第32代フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領であった。[b]

 アメリカの政治を動かす東部エスタブリッシュメントと中国の強い絆は、アヘン貿易から始まっていたのである。

■3.サンフランシスコは「チャイナへの出発点」

 当時、イギリスは、アフリカ大陸の南端ケープ植民地、インド洋のセイロン、そして太平洋に出るマラッカ海峡とシンガポールを押さえて、中国へのルートを確保していた。

 アメリカが中国に出ようとすると、大西洋を横断してから、イギリスが押さえているルートを使わざるを得ない。距離も長く、いったんイギリスと事が起これば、すぐに締め出されてしまう。

 そこでアメリカが考えたのが、太平洋沿岸まで領土を拡張し、そこから一気に中国をめざすというルートだった。

 太平洋岸までの領土拡張策として、1835年にはメキシコ領だったテキサスで米人が独立運動を起こした末に、1946年併合。さらにメキシコとの戦争に勝って、アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、ニュー・メキシコなどを奪った。[c]

 太平洋岸まで領土を拡張した後は、東部からの大陸横断鉄道を建設する。1862年から建設が始まり、1869年に開通した。パーマーは『改訂日本開国提案書』の1年前、1848年にこんな提唱をしている。[1,p149]

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 サンフランシスコは太平洋岸の商業の中心地になることは疑いない。この町が東部諸州と鉄道で繋がったとき、ここはチャイナ(市場)への出発点となる。
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■4.「カリフォルニアとチャイナを結ぶ航路」

 大陸横断鉄道によって、東部諸州から5日程度で、サンフランシスコに出られる。そこから一気に太平洋を横断して中国に到達するのに20日足らず。一ヶ月弱で中国市場にアクセスできることになる。

 後にペリーの艦隊は、大西洋、インド洋を横断して香港に着くまでに4ヶ月ほどもかかっているので、それに比べれば、太平洋ルートがいかに効率的か理解できよう。この太平洋ルートが開ければ、イギリスに対しても、圧倒的な優位に立つことができるのである。

 当時のフィルモア大統領は、次のような方針を示している。

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 カリフォルニアとチャイナを結ぶ航路。これが最後に残されたリンクである。わが国の企業家にこの航路を提供する施策を一気呵成にとらなければならない。[1,p164]
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「カリフォルニアとチャイナを結ぶ航路」の途上にあって、石炭や水を積む中継拠点として必要とされたのが日本であった。

■5.米海軍の四分の一を動員する史上最大の日本遠征

 日本遠征の司令官として任命されたのが、米国東インド艦隊司令長官マシュー・ぺリーであった。ペリーは蒸気戦艦ミシシッピ号の艦長として、米墨戦争に参加した。蒸気郵船開発の監督責任者を命じられたこともあり、蒸気機関の技術にも明るかった。

 日本遠征に参加する艦船は10隻。当時の米海軍のほぼ4分の1を動員するという大規模な計画となった。米国が海外ミッションに送り出した艦隊としては最大規模であった。

 日本遠征計画がマスコミに漏れ伝わると、アメリカの世論は真っ二つに割れた。ニューヨークの有力紙『エキスプレス』は、次のように遠征に好意的な論陣を張った。[1,p166]

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 日本はその冨を障壁の内部に隠しておく権利はなく、国民を無知と迷信のなかに閉じ込めておく権利もない。・・・日本を教育することはわれわれの責務なのである。
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 アメリカが、有色人種を植民地化して、文明を教えてやることは、「神によって与えられた明白な使命 "Manifest Destiny"」であるとする19世紀的な人種差別観に基づいた論調である。

 ライバルの『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』紙は、平和的な方法により日本開国交渉にあたるべきだと反論した。

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(艦隊の派遣は)日本に対する宣戦布告である。・・・軍事的な行動によって日本民衆を米国嫌いにすることは目に見えている。
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 として、「米国や世界がアヘン戦争でイギリスが中国で行った植民地主義を非難している今、イギリスと同じ轍(てつ)を踏むべきではない」と主張した。

■6.日本遠征反対論を下火にさせた「日本野蛮国」報道

 ところが、ちょうどこの時に『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』にある記事が掲載された。6年前に日本沿岸で遭難して保護され、オランダ船によって長崎から送還された米捕鯨船員マーフィー・ウェルズが、アフリカ西岸のセントヘレナ島に現れたというのである。

「海岸にたどりつくや土着民に捕まりボートや所持品は没収され、動物を入れる見世物にするような籠(かご)に押し込まれた」「踏み絵を強制され、従わなければ皆殺しにすると脅された」

 こんな野蛮な国に平和的交渉を仕掛けてもムダだと、多くの米国民は思ったであろう。この記事をきっかけに、『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』から日本遠征反対論が消え、米世論はペリー艦隊派遣に一本化していく。

 興味深いのは、同じ『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』が、一年後、ペリーの対日交渉成功の後に次のような訂正記事を出していることだ。[1,p202]

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 日本の漂流民の取り扱いは従前より伝えられていた内容とは逆であった。日本のために公正を期して言えば、(捕鯨)船員の拘束は彼らの横柄で法を守らないことから必要な処置だった。・・・

 日本側は漂流民の保護はすでに法令で定めている、と説明している。
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 遠征反対論を打破するために「日本は野蛮な国」との情報を流し、ペリーの交渉が成功すると、今度は「日本は文明的な国」と訂正する。それは間接的にペリーの成功を持ち上げる効果を持ったろう。世論がモノを言う米国では、よくある世論工作だと考えられる。

■7.「日本は東洋におけるイギリスとなるであろう」

 その一方で、ペリー自身は日本をよく研究していた。神功皇后が三韓征伐をしたことや、頼朝、尼将軍の事も学んでいた。世界中のどの国よりも教育が行き届き、どんなに貧しい農民さえ、少なくとも読むことはできることも知っていた。

 ペリーに日本の知識を与えた一人が、日本遠征計画を提案したアーロン・パーマーであった。パーマーは最初の提案書の中で、日本に対して次のような記述をしている。

・エネルギッシュな民族で、新しいものを同化する能力はアジア的というよりも、むしろヨーロッパ的とも言える。

・名誉を重んじる騎士道のセンスをもっており、これは他のアジア諸国と全く異なる。

・アジア諸国に見られる意地汚いへつらいの傾向とは一線を画し、彼らの行動規範は男らしい名誉と信義を基本としている。

・支那に隷属することもなく、外国に侵略されたり植民地化されたことがない。

 そして「日本は東洋におけるイギリスとなるであろう」とまで言い切っている。

 清国民衆にアヘンを売りつけて、大儲けをするようなビジネスは、日本に対してはできない、と初めから考えていたのではないか。だからこそ、日本への要求は「サンフランシスコ-上海間を結ぶ蒸気船の石炭補給基地を提供すること」だけだったのである。

■8.江戸幕府の決断

 一方、徳川幕府もオランダから、アメリカの動きに関する情報を得ていた。嘉永5(1852)年には「翌年の春以降にアメリカの軍艦がペリーに率いられて江戸城にやってくること」が報告されている。

 翌年の報告では「その後の情報によれば、日本遠征隊は出発した」として、各艦のトン数、大砲の数、乗組員数を列記し、「合計で236門、3125名である」と詳細な情報を伝えている。

 当時、オランダの駐米大使は次のような報告を本国政府に送っていた。[1,p182]

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 アメリカ海軍の狙いは、東アジアに拡大する商業利権の保護とアメリカ太平洋沿岸の安全保障である。
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 こうした情報は、江戸幕府にも伝わり、ペリー艦隊の軍事力には対抗できないが、アメリカの狙いは日本侵略ではなく、あくまで「サンフランシスコ-上海間を結ぶ蒸気船の石炭補給基地を提供すること」にあることは、把握していたと考えられる。

 とすれば、ペリー艦隊の要求をひとまずは受け入れ、その後は早急に近代的軍事力を身につけて、西洋列強が相争う「戦いの海」で自らの独立を自らの力で護っていくしかない、と考えたことは、当時の弱肉強食の国際情勢を踏まえた、極めて合理的な判断だったと言えよう。[d]

 1867年、ペリー来航から14年後、パシフィックメール蒸気船会社によって、サンフランシスコ-横浜-上海-香港の太平洋航路が開通した。

 しかし「日本は東洋におけるイギリスとなるであろう」というパーマーの予言通り、日本は急速な発展によって、アメリカの中国権益に対する新たなるライバルとなっていった。ここに大東亜戦争の遠因が潜んでいた。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(173) アヘン戦争~林則徐はなぜ敗れたのか?
 世界の中心たる大清帝国が、「ケシ粒のような小国」と戦って負けるとは誰が予想したろう。
【リンク工事中】

b. JOG(096) ルーズベルトの愚行
 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
【リンク工事中】

c. JOG(014) Remember: アメリカ西進の軌跡
 アメリカは、自らが非白人劣等民族の領土を植民地化することによって、文明をもたらすことを神から与えられた「明白なる天意」と称した。
【リンク工事中】

d. JOG(149) 黒船と白旗
 ペリーの黒船から手渡された白旗は、弱肉強食の近代世界システムへの屈服を要求していた。
https://note.com/jog_jp/n/n9fde15560fc7

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 渡辺惣樹『日本開国』★★、草思社、H21
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