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JOG(208) 岩倉使節団~サムライ達の地球一周

 西洋文明の隆盛ぶりにも圧倒されず、堂々と旅する使節団一行の自信はどこから来たのか?


■1.「英雄豪傑」から少女までの大旅行■

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 廃藩置県が終わって早々の明治4年秋、岩倉具視を団長とする五十人ほどの革命政権の顕官が大挙欧米見学に発ちます。

 「国家見学」ともいうべきものでした。世界史のどこに、新国家ができて早々、革命の英雄豪傑たちが地球のあちこちを見てまわって、どのような国を作るべきかをうろついてみてまわった国があったでしょうか。
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「明治という国家」の中で司馬遼太郎はこう語る。明治新政府樹立には成功したが、まだ新しい国をどう作るか、という青写真はなかった。欧米を中心とした当時の国際社会の有様を自分の目で見て考えよう、というのが、この632日におよぶ大旅行の目的だった。明治日本の構想はこの旅で作られたと言える。

 メンバーは、右大臣・岩倉具視(47歳)をリーダーに、副使として、参議・木戸孝允(39歳)、大蔵卿・大久保利通(42歳)、そして若き日の伊藤博文(31歳)など。これに実務を担当する書記官、各省の専門調査理事官などで、総勢48名。さらに60人近くの留学生が随行した。その中には、後に民権思想のリーダーとなる中江兆民、ルーズベルト大統領の学友となって日露講和に貢献する金子賢太郎などがいた。

 さらに異色なのは、女子教育が大切だとして5人の少女を同行させたことだ。後に津田塾大学を創設する津田梅子はまだわずか7才。「あんな幼い子を独り夷国にやるなんて親の気が知れない」との声を背に、士族の父親・津田仙弥は英語の入門書とともに、愛娘に絵本や人形を持たせて送り出したのである。

■2.西洋文明の最初の洗礼■

 明治4(1871)年11月12日、一行を乗せたアメリカの太平洋郵船会社の外輪船「アメリカ号」は横浜港を出発、23日かけてサンフランシスコに到着した。一行は5階建ての格式高いグランドホテルに宿泊して、西洋文明の最初の洗礼を浴びた。この大旅行を記録した久米邦武は「米欧回覧実記」にこう書いている。
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 大鏡は水の如く、カーペットは花の如く、天井からは宝石とみまちがうほどのビードロのシャンデリアがぶら下がり、ガス灯を点ずれば七彩に輝いて素晴らしい。
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 二人の少年が、ロビーの一角の小部屋に案内されて、「妙な部屋に連れ込まれたな」と怪訝な面持ちでいると、ボーイがドアを閉め、ゴトンという音がしていきなり部屋ごと浮かび上がった。エレベータであった。

■3.参会者の胸をうった若き伊藤博文の「日の丸演説」■

 サンフランシスコでは、日曜以外は連日歓迎行事が続いた。12月14日には、知事、市長など各界の名士300名が参加する大歓迎晩餐会が開かれた。会場には日米の国旗が飾られた。

 日本側は岩倉大使の挨拶のあと、伊藤博文が後に「日の丸演説」として知られる英語のスピーチを行った。
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 わが国ではすでに陸海軍、学校、教育の制度について欧米の方式を採用しており、貿易についても頓(とみ)に盛んになり、文明の知識は滔々と流入しつつあります。・・・

 国民の精神進歩はさらに著しいものがあります。数百年来の封建制度は、一個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、一年のうちに撤廃されました。(廃藩置県を指す)

 このような大改革を、世界の歴史において、いずれの国が戦争なくして成し遂げたでありましょうか。この驚くべき成果は、わが政府と国民との一致協力によって成就されたものであり、この一事をみても、わが国の精神的進歩が物質的進歩を凌駕するものであることがおわかりでしょう。

 わが国旗にある赤いマルは、もはや帝国を封ずる封蝋のように見えることなく、いままさに洋上に昇らんとする太陽を象徴し、わが日本が欧米文明の中原に向けて躍進する印であります。
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 万雷の拍手がしばし止むことなかった。31歳の伊藤博文の新生日本の国造りへの思いが参会者の胸を打った。

■4.日本人の気概と気品■

 サンフランシシコから大陸横断鉄道で各地を訪問しつつ、翌年1月21日にはワシントンに着いた。国会議事堂やホワイトハウスなどは、今日の形に出来上がっていた。当時の大統領は南北戦争の英雄・グラント将軍で、天皇陛下からの国書を手渡した。ここでも米国高官がほとんど出席しての大歓迎だった。

 ここでは不平等条約の改正について、予備交渉をしておく予定だったが、サンフランシシコ以来の歓迎ぶりに気をよくして、一気に本交渉に入ろうとした。ところが、米側は「天皇陛下からの委任状はお持ちですか」と訪ねてきた。日本側は外交交渉には委任状が必要だとの国際常識も知らなかった。

 そのため、大久保利通と伊藤博文が往復4ヶ月もかけてわざわざ日本に委任状を取りに帰るということになった。結果的に条約交渉は不調に終わるが、その気概には驚かされる。その間、他のメンバーはニューヨークやボストンなどにも足を伸ばして、精力的な見学を行った。

 一行の振る舞いは各地で好印象を与えたようだ。ニューヨークタイムズは次のように報じた。

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 礼儀作法の点では、アメリカ人は日本人に教えられる所が多かろう。彼らは上品に礼儀正しく会釈をし、なんの苦もなく紳士的な敬意をもって人を遇する。個人の客間でも公の歓迎会でもまた街頭でも、彼らの振舞はきわめて高く称賛された。
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 一行は江戸時代の武士や公家の立ち居振舞いをそのまま演じたのだろうが、それはきわめて洗練されたものとして、米国人には受けとめられたのである。

■5.わずか40年の差■


 7月14日、ロンドン到着。当時の大英帝国は栄光の頂点にあった。リバプールの造船所、紡績工場、産業革命の発祥の地マンチェスターでの紡績機械工場などを見学して廻った。一行は、英国が日本と同じくらいの大きさであるのに、富については大変な格差が生じている理由が工業と貿易だということを理解した。

 そして鉄道や船、郵便制度、各種の機械工場などが、40年前にはほとんどなかった事を知る。そのころは陸に走る汽車もなく、海を走る汽船もなく、馬車を走らせ、風任せの帆船で海を渡っていた。綿布なども海外の珍品でしかなかった。

 ならば、日本人もそのつもりで努力すれば、40年前後で欧米に追いつくことも可能ではないか、と一行は考えたのだろう。一行の帰国後、工業を興し、農業を近代化するための内務省勧業寮が設けられ、通信・交通のインフラ整備や鉱山開発、造船所建設を進める工部省とともに、産業経済の近代化が大車輪で進められることになる。

■6.文明の悪を回避する■

 一行は、世界一の繁栄を誇るロンドンにも陰の部分がある事を見逃さなかった。イーストエンドの貧民街を探訪した木戸孝允は、極貧の宿泊所ではシナ人やインド人がアヘンを吸っている様を日記に記している。また人通りの少ない街路では窃盗や不良少年、博徒らが徘徊している。

 英国各地での貴族や富豪の豪勢な生活ぶりと比較して、その貧富の差に驚かされた。日本は、全般的には貧しいとはいえ、貧富の差はそのような激しいものではなく、治安も良かった。

 岩倉具視はマンチェスターを訪れた時に、以下のように語ったとタイムズは伝えている。

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 われわれは世界を一巡し、訪問先の国々から西洋文化の長所はなんでも取り入れたいと思っています。われわれはそれと同時に、文明の発展に伴って各国に発生したと思われる悪の回避にも努めるつもりです。
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 使節団帰国前に発布された学制では、「身ヲ修メ、智ヲ開キ、才芸ニ長ズルハ学ニアラザレバ能ワズ」と学問こそが世に立つ基であることを明らかにし、「必ズ邑(むら)ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン」として、その後わずか5年ほどで2万6千校以上の小学校が設置された。平等の教育こそロンドンで見たような「文明の悪」を回避する方策だったのであろう。

■7.共和制か、君主制か■

 11月16日、ロンドンを発ち、ドーバー海峡を渡って、フランスに着く。煤汚れた喧噪の町ロンドンに比べれば、パリは美しい石造りの建物の建ち並ぶ、まさに「風景、絵のごとし」と一行が讃歎する麗都であった。

 しかし、この美しく豊かな国が、革命以来政体が安定せず、80年間の間に6回も王政と共和制を繰り返してきたことを知る。政経学者のブロック博士からは、かえって日本の「万世一系の天皇制」を評価される。共和制寄りの考え方を持っていた木戸も、「独立自由も三権分立も、よほど勘弁してかからないと大変なことになる」と考え直した。

 アメリカの共和制は良い所も多いが、たとえばニューヨークなどのビジネス都市ではとくに富豪・財界の力が大きく、政権もほとんどその力に圧せられてしまっている。アメリカ人は「共和と自由」の原理を信じて、その弊害を知らず、「只、その美を愛し、世界を挙げて、己の国是に就かしめんとす」などと記録している所は現代の米人を髣髴とさせて苦笑させられる。

 逆に、後に訪ねるロシアは前時代的な極端な帝政で、お手本にはならない。結局、木戸も大久保も帰国後にそれぞれ、立憲君主制による「日本独自の」君民共治を目指すべき、という建言書を提出している。伊藤は、この方向を発展させて、後に大日本帝国憲法を起草することになる。

■8.弱の肉は、強の食■

 年が明けて、明治6(1873)年3月9日、ベルリン着。ドイツはオーストリア、ロシア、フランスという大国に取り囲まれながら、ようやく数年前にプロイセン中心に国家統一をなしとげた所であった。その宰相ビスマルクは一行にこう語った。
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 当今、世界はみな親睦礼儀をもって交わっているように見えるが、それはまったく表面上のことで、内面では強弱相凌ぎ、大が小を侮るというのが実情である。
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 その後、一行はロシア、北欧、イタリア、オーストリア、スイスを廻って、7月20日、フランス郵船のアウア号でマルセイユを出発。スエズ運河を通って、インド洋を横断して、緑したたるセイロン島に着く。しかし、ここは最初にポルトガルが海浜の地を占領し、次にオランダが砦を作り、今や全島が英国の支配下にあった。アウア号はここでカルカッタから来たアヘンを積み込む。奇しくも悪名高き英国のアヘン貿易の現場に立ち会ったのである。

 船がマラッカ海峡にさしかかると、オランダの植民地となっていたスマトラ島では、現地人の反乱が起きていた。アウア号にはオランダの大将と属官が乗り込んでおり、この戦争に向かう所であった。その後、アウア号はイギリスの植民地シンガポール、フランスの植民地サイゴンと寄港していく。一行はアジア各地が欧米列強に餌食にされている様をまざまざと見た。日本も他人事ではない。久米はこう書く。
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 弱の肉は、強の食。欧州人遠航の業おこりしより、熱帯の弱国、みなその争い喰うところとなりて、その豊饒の物産を、本州(本国)に輸入す。
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■9.道義国家としての自信■

 9月4日、一行は上海にてアメリカ船ゴルテンエン号に乗り換えて、故国に向かう。長崎に寄港した後、船は玄界灘から瀬戸内海に入る。朝の5時にアメリカ人の船長は、「世界の絶景ですから起き出でてご覧あれ」と船客に呼びかけた。1年9ヶ月ぶりに見る日本の風光は実に美しかった。9月13日横浜着。632日の大旅行は終わった。

 考えてみれば、使節の一行が欧米諸国の経済力や技術力にも圧倒されずに、その善悪、美醜の両面を、事実に即して正確に捉え、なおかつ気品気骨ある態度で欧米人に強い印象を与えたことは、驚くべき事である。この点について[1]の著者・泉三郎氏はこう語っている。
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 サムライはあくまでも精神的貴族であり、貧しさをむしろ誇りとする君子でした。・・・

 使節の一行がなぜ、仰ぎ見るような西洋文明の隆盛ぶりを目の当たりにしながら、なお劣等感に打ちひしがれることがなかったのか。その秘密の一つは、金銭や物質にもともと彼らがそれほどの価値を置かなかったからではないでしょうか。「英米蘭などは町人国家なり」というとき、道義国家としての日本の矜持が窺われ、道義において欧米より進んでいる自国に大いなる自信を持っていたことが感じられます。
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 130年後、世界有数の経済大国となった現代の日本を使節一行が訪れたら、どう思うだろうか。

(文責:伊勢雅臣)

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