見出し画像

JOG(383) サムライ化学者、高峰譲吉(上)

大勢の飢えた人々を一度に救える道として、譲吉は化学を志した。


過去号閲覧: https://note.com/jog_jp/n/ndeec0de23251
無料メール受信:https://1lejend.com/stepmail/kd.php?no=172776

■1.「泣き一揆」の光景■

「腹減った~」「死にそうじゃ~」「米食わせ~」 
 金沢城を見おろす卯辰山(うたつやま)から、空腹を訴える群衆の声が、城下に降り注いだ。安政5(1858)年7月11日夜の事であった。

 この年2月、金沢は60年ぶりの大地震に襲われ、2千余の町屋が倒壊。その上に5月からは雨続きで大凶作となった。大飢饉と米価の急騰で、餓死寸前の町民、農民2千人が、夜陰にまぎれて立ち入り御法度の卯辰山に登り、空腹を訴えた。「泣き一揆」と呼ばれた。

 藩主の御典医・高峰元陸は、4歳になったばかりの息子・譲吉を背負って卯辰山に向かった。医者の子として、今夜のことを見せておかねばならない、と思いたったからである。松明を振りかざし、幽鬼のように泣き叫ぶ人々の姿を見ながら、その声に消されないような大声で、元陸は背負った息子に言った。

 ええか、わが家は代々医者じゃ。医術の前には、貧富の差はない。おまえは大きゅうなったら、今夜のような人たちを救える医者になれ。

 この夜の光景は、生涯忘れることのできない出来事として、譲吉の心に焼きついた。

■2.大勢の飢えた人々を一度に救える道■

 元陸は若い頃、医学だけでなく、当時は「舎密(セイミ)」と呼ばれた化学の勉強もしていた。セイミとは英語で言えば、ケミストリー(化学)である。その知識を使って、元陸は加賀藩に大きな貢献をなした。時あたかも幕末、海防の必要性が叫ばれるなか、火薬の主成分である硝石の大量生産方法を考え出したのである。 
 
 養蚕農家で不要となった蚕のサナギを切り刻んで、草にまぜあわせ、数ヶ月放置しておく。発酵が進んで、サナギに含まれている窒素が酸化し、硝酸塩類に変化する。これに灰汁をまぜあわせて大釜で煮立て、ふたたび数ヶ月おくと、底の方にキラキラした結晶ができる。これが硝石である。

 譲吉は、茶褐色の汁を棄てたあとに出てきた氷のように光る結晶を見て驚いた。「父上、なぜ、あのサナギの腐ったものが、こんなキラキラしたものに化けるのですか?」 元陸は、これが「舎密」という学問であると譲吉に教えた。

 元陸は硝石の量産の目処が立つと、これを山間部の農家の副業とすべく、年貢の米の代わりに硝石を納めても良いように藩にかけあった。山間部の貧しい農家は喜んで硝石の生産に励んだ。

「泣き一揆」で見た飢えた人々を思い浮かべながら、譲吉は考えた。大勢の飢えた人々を一度に救える道があるとしたら、それは「舎密」なのではないか。

■3.鉄の文明■

 明治6(1873)年、日本で最初の工科大学として、「工部大学校」が設立された。後の東京大学工学部である。第一期の合格者わずかに32名。その中に金沢から上京した高峰譲吉がいた。

 明治13(1880)年、卒業する第一期生の中から、さらに11名が選ばれて、英国留学に派遣された。留学生は鉱山、冶金、鉄道、電気などの専攻分野から選抜されたが、応用化学の分野からは譲吉が選ばれた。

 譲吉は、かつて加賀藩で英語を教えていたオズボーン先生から聞いたことがある。英国も日本と同様小さな国なのに、自分ははるばる日本にやってくる事ができた。その差は何か。英国には、石炭で水を湧かし、その力で大勢の人や物を運ぶ、鉄でできた大きな車が走っている。これが化学工業の力で、この力がイギリスと日本の国の力の差だと。

 その機関車を譲吉はロンドンで実際に見て驚いた。機関車ばかりか、橋もガス灯も下水管も鉄ばかりである。この「鉄の文明」を成り立たせているのが化学工業の力だと、譲吉は実感した。

 譲吉は工業都市グラスゴーに赴き、当時英国でも応用化学では第一人者と言われたミルス博士のもとで研究を続けた。3年という短い留学期間にできるだけ多くの知識と技術を学んで帰ろうと、春や夏の休暇のあいだ、他の学生がバカンスを楽しんでいるときに、譲吉は工業の盛んなリバプールやマンチェスターに出かけて、ソーダ製造工場や人造肥料工場で働いた。

■4.「肥料の研究をやってみたい」■ 

 明治16(1883)年3月、譲吉は3年間の留学を終えて帰国し、大阪のソーダ製造所に行くように命ぜられた。しかし、譲吉はそれを断った。

 欧米に興った化学工業を、日本にも興そうというなら、それは真似事に過ぎません。真似事なら外国人技術者から学べば良いのです。 せっかく留学して学んできた知識と技術を、欧米の真似事ではなく、日本固有の化学工業のために応用したいのです。たしかに真似事も必要ではありますが、日本の将来を考えたとき、固有の化学工業を発展させることのほうが、より大切だと思うからです。

「それでは何をやりたいのかね」と聞かれた譲吉は「真っ先に、肥料の研究をやってみたいと思います」と答えた。まだはっきりした考えがあっての事ではなかったが、まず人々が飢えないよう化学者として何か役に立ちたい、という突き上げるような思いがあった。譲吉の心底には、あの「泣き一揆」で飢えに苦しむ人々の哀しい叫び声が、こだましていた。

■5.「日本の農民を救うものは農業でなくて工業である」■

 譲吉の願いは聞き入れられ、農商務省で、日常的な役所業務などしなくて良いから、化学工業に役立ちそうなものは何でも研究してよい、という地位を与えられた。このあたりは明治新政府の型破りなところである。

 譲吉は精力的に農村を歩いて回って、その実情を調べた。当時、政府では「農業も欧米に倣って大規模化、機械化すべし」という議論が罷り通っていたが、譲吉が足で得た結論は別だった。

 我が国の農業の問題は、人間や牛馬の糞、あるいは落ち葉や枯れ草を腐らせた堆肥など、旧態依然とした肥料だけに頼ってきた所に問題がある。欧米で使われている燐酸肥料を使えば、土壌を強くし、収穫を飛躍的に伸ばすことができるだろう、と考えた。そして、こう説いて回った。

 日本の農民を救うものは農業でなくて工業である、というのが私の信念です。工業の力で人造肥料を作り、田畑からの収穫を、2倍、3倍に増やしたい、、、

■6.二つの出会い■

 翌・明治17(1884)年、30歳になったばかりの譲吉に大きな転機が訪れた。その年の秋に米国南部のニューオーリンズで開かれる万国工業博覧会に日本も参加することとなり、譲吉が農商務省を代表する事務官として派遣されることになったのである。近代国家に仲間入りした日本を、欧米列強にアピールするには、またとない機会であった。

 譲吉は熱心に展示の準備に取り組み、特に展示品の解説や、実演の説明、会場案内など、英文の解説を担当した。そして迎えた博覧会の初日、急ぎ足で各国の展示館を見て回った。「これなら、日本館はどこの展示場にもまけないぞ」と自信と安心感を抱いた。

 順路の途中に、サウスカロライナ州の粗末なテント会場があった。その片隅にある白っぽい灰色の小さな石ころに、譲吉の目は吸い寄せられた。それは燐酸肥料を作るのに必要な燐酸鉱石であった。そこの責任者に聞いて、それがサウスカロライナのチャールストン近くの鉱石場で採掘されていることが分かった。譲吉は博覧会の終了後、その採掘の現場や精錬工場を見学できるように依頼した。

 この博覧会で、譲吉はもう一つの大きな出会いを経験した。南部の名門ヒッチ家の娘キャロラインである。その母が茶の湯に興味を持って、日本館を毎日のように訪ねてきては、譲吉が応対した。その縁で、ヒッチ家に夕食の招待を受け、そこでキャロラインに出会ったのである。

 博覧会の閉幕まぎわに、譲吉はヒッチ家を訪問し、キャロラインとの結婚を申し入れた。父親はやや渋い顔をしたが、母親はすぐに賛成して「愛情を感じ合っていれば、国の違いなど関係ありません」と押し切った。記録に残された日本人と米国人の結婚としては、最初のものであった。

■7.「日本農家の革命」■

 譲吉はアメリカで自分の貯金をすべてはたいて持ち帰った燐酸肥料10トンを、全国の篤農家に配って試して貰うことにした。「畑を耕すのに石ころを取り除くことはありますが、わざわざ石ころを畑に持ち込んだことはありません」と、農民たちは尻込みしたが、譲吉は自ら人造肥料の効能を分かりやすく説いて回った。

「東京から偉い役人が来て、あそこまで言うのだから、まあ試しに使ってみるか」と使い始めると、麦の収穫が3割から7割も増えた。

「これは大変な成績だ。日本農家の革命だ。全国の農村に一日も早く普及させるためには、官営の人造肥料工場を設立すべきだ」という声が、農商務省の中で起こった。しかし、当時は官営工場を次々に民間に払い下げている時代だった。

 官営が無理なら、自分でやるしかない。譲吉は実業界の大立て者・渋沢栄一の許に紹介もなく飛び込んで、人造肥料の製造の必要性を説いた。渋沢も農民出身である。真剣に日本の農業の将来を憂える譲吉の言葉に、渋沢の胸は熱くなった。[a]

 この後、渋沢は譲吉の話が事業として成り立つか、自分なりに調べてみた。そして人造肥料による増産のデータも得て、譲吉の主張が化学者としての冷静な分析の上になりたっていることを知った。さらに譲吉が自費でアメリカから10トンもの人造肥料を買ってきた、という話を聞いて、胸を打たれた。「あの青年にだけ、農業のことを任せておくのでは、経済人として恥ずかしい限りだ」 渋沢は譲吉の説く人造肥料会社設立に手を貸すことを決意した。

■8.日本で最初の人造肥料■

 渋沢や三井財閥の大番頭・益田孝の力を借りて、明治20(1887)年2月、日本で最初の人造肥料会社が設立された。3月から譲吉は製造に必要な機械類の購入と燐鉱石の買い付けのために、欧州から米国へと回り、11月にキャロラインを連れて、帰国した。

 本所深川の汚い農家の離れを借りて住み込み、譲吉は朝から晩まで工場建設に没頭した。キャロラインは甲斐甲斐しくその世話をやいた。

 明治21(1888)年3月、日本で最初の人造肥料が発売された。譲吉は各地で人造肥料普及のための講演会に飛び回った。特に火山灰による地層の多い関東地方では、燐酸肥料は絶大な効果を発揮し、収穫が4、5倍へと飛躍的に伸びた。年老いた農民の中には、譲吉の講演会を待ちかまえて、手を合わせる者もいた。

■9.「日本人ここにあり」と、世界に示してほしい■

 譲吉の超人的な所は、こうした大車輪の活動の陰に、すでに次の研究を進めていた事だ。その一つとして、古来から酒造りに使われていた麹(こうじ)を安価大量に生成できる方法の開発に成功していた。「高峰式元麹改良法」として、譲吉が特許をとった最初のものであった。

 その特許を知ったアメリカ最大手のウイスキー・トラストが、ウイスキーの製造にこの新しい醸造法を試してみたいので、技術指導にぜひアメリカに来て欲しいと依頼してきた。

 しかし、ようやく軌道に乗り始めた人造肥料会社を、どうするのか? 迷いに迷って、譲吉は渋沢に相談した。

 渋沢さん。これまで我々日本人は、欧米人の発明したものを数多く使わせてもらって、ここまでやってきました。そんな状況の中で、これは自慢するわけじゃありませんが、アメリカから日本の特許を使いたいと、辞を低くして頼みにきたのは、これが初めてでしょう。

 たとえ、失敗して倒れるとしても、私は、日本人として、また一人の化学者として、世界を相手に倒れたい。私の開発したものが、世界という舞台で、どこまで通用するか、文字通り、根限り試してみたいのです。[1,p261]

 話を聞いた渋沢は、きっぱりと言った。

 高峰さん。あなたの進むべき道はひとつです。もちろん、アメリカに行くのです。行って日本人の化学者として大いに実力を振るってほしいのです。人造肥料会社の経営も、ようやくここにきて軌道に乗りました。技術的なことは、あなたのおかげですでに完成しております。あとは経営的なことですから、これは、私や益田さんでやっていけます。 

 だから、安心してあなたは、アメリカに行きなさい。なにしろ、日本人のあなたが研究した開発が、世界に認められたのです。これほどの快挙はありません。大いに「日本人ここにあり」というところを、世界に示してほしいのです。

 幕末には勤王の志士として活躍していた渋沢である。話の終わり頃は、叫ぶようになっていた。

 明治23年秋、譲吉は妻キャロラインと二人の子供を連れて、横浜からアメリカに向かった。

(文責:伊勢雅臣)

(次号に続きます)

■リンク■
a.

■参考■

(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  
1. 真鍋繁樹『堂々たる夢』★★★、講談社、H11

2. 山嶋哲盛『』★★★、岩波ジュニア新書、H13

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■「サムライ化学者、高峰譲吉(上)」について郷さんより

 No.383 サムライ化学者 高峰譲吉さんの無私なベンチャー魂に圧倒されました。起業の原点はここにあり、と思いました。 国富んで消えるものがあるとすれば、世の中のため、困っている人のために働くという意識です。ひたすらIPOで長者になるために働く輩や、マネー・フィクションの錬金術で買収合戦を繰り広げる輩が増える。そればかりか、それを囃して愉しむ大衆だらけの世の中になる。

「儲かりそうだからやる事業」「金銭の計算から入る事業」そういう考えでは失敗をすると言われます。まず「それをやると誰がどれだけ助かるか」「それはお金をはらってもらえる価値があるか」、高峰氏のこういう純粋な視点が必要なのでしょう。事業を興すという一大事でなくても、日常の仕事であっても自分だけの利益を考える人は直ぐに底が割れますから。 純粋なサムライの後編をお待ちしております。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 これほどの偉人が現代日本ではほとんど知られていない事に、戦後教育の後遺症を感じます。 

© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?