JOG(304) 日本のルーツ? 長江文明
漢民族の黄河文明より千年以上も前に栄えていた長江文 明こそ、日本人のルーツかも知れない。
■1.再生と循環の長江文明■
6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生して
いた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア
文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千
年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕
る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」で
あった。
4200年前に起こった気候の寒冷化によって、漢民族のルーツ
につながる北方の民が南下した。彼らは畑作牧畜を生業とし、
自然を切り開く「力と闘争の文明」の民であった。彼らはその
武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。
これが今日の苗(ミヤオ)族などの少数民族である。
別の一派はボートピープルとなって、一部は台湾の原住民と
なり、別の一派は日本に漂着して、稲作農耕の弥生時代をもた
らし、大和朝廷を開いた、、、
日本人の起源に関するこうした壮大な仮説が、考古学や人類
学の成果をもとに学問的に検証されつつある。これが完全に立
証されれば、日本人のアイデンティティに劇的な影響を与える
だろう。今回はこの仮説に迫ってみよう。
■2.森と川と水田と■
1996年、国際日本文化センター教授・安田喜憲氏は3年もの
交渉期間を経て、長江流域に関する日中共同の発掘調査にこぎ
つけた。対象としたのは長江の支流・岷江流域、四川省成都市
郊外の龍馬古城宝トン(土へんに敦)遺跡である。測量してみ
ると、この遺跡は長辺1100メートル、短辺600メートル、
高さ7~8メートルの長方形の城壁に守られた巨大都市だった。
城壁の断面から採取した炭片を放射性炭素による年代測定法
で調べてみると、4500年前のものであった。エジプトで古王国
が誕生し、インダス川流域に都市国家が出現したのと同じ時期
だった。
1998年からは湖南省の城頭山遺跡の学術調査が開始された。
直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に
囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていた。城壁の最古
の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明した。また
約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作
を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかった。
さらに出土した花粉の分析など、環境考古学的調査を行うと、
これらの都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森であるこ
とがわかった。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、
黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは
根本的に異なっていた。
深い森と豊かな川と青々とした水田と、、、長江文明の民が
暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらのな
しかしい風景とそっくりである。
■3.平等な稲作共同体■
長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、他の四大文明が畑
作農耕をしていたというのも、決定的な違いである。小麦や大
麦は、極端に言えば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはた
いした手間をかけずに育っていく。そのような単純労働は奴隷
に任され、支配者は都市に住んで、農奴の管理をするという階
級分化が進みやすい。都市は交易と消費の中心となり、富と武
力を蓄える役割を持つ。
それに対して稲作は複雑で手間がかかる。苗代をつくってイ
ネを育て、水田に植え替えをする。秋に実るまでに水田の水を
管理し、田の草も取らねばならない。高度な技術と熟練を要す
るので、奴隷に任せてはおけず、共同体の中での助け合いを必
要とする。そこでの都市は水をコントロールする灌漑のセンタ
ーとして成立し、さらに豊穣を祈る祭祀が行われる場所として
発展していく。おそらく祭祀を執り行う者がリーダーとなった
であろうが、その下で身分の分化は畑作農耕社会ほどには進ま
なかったであろう。
■4.太陽と鳥の信仰■
7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円と
して描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙
製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が
描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽
と鳥が信仰されていたのである。
種籾をまき、苗床を作り、田植えを行い、刈り取りをする、
という季節の移ろいにあわせて、複雑な農作業をしなければな
らない稲作農耕民にとって、太陽の運行は時を図る基準であっ
た。同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。太陽信仰
が生まれたのも当然であろう。
その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。太陽は朝に
生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇る。太陽の永遠の再生と
循環を手助けするものこそ鳥なのである。
太陽信仰と鳥信仰は日本神話でも見られる。まず皇室の祖神
である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものであった。
神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となった
のが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であ
った。日本サッカー協会のシンボルマークとしてもよく知られ
ている。
景行天皇の皇子で九州の熊襲(くまそ)を征し、東国の蝦夷
(えみし)を鎮定した日本武尊(やまとたけるのみこと)は、帰
途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したが、死後、八尋白智鳥(や
ひろしろちどり、大きな白鳥)と化して天のかなたへ飛び去っ
たという。さらに伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、
「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされている。
■5.鳥と龍との戦い■
約4200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民
が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢
民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(
う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江
と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さん
びょう)と戦い、これを攻略したという記事がある。三苗とは
今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民であると見られる。
一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話が
ある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄
帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。
長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神
とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、
鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族との争いを暗示してい
ると考えられる。
これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やま
たのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた
大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、
人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人
は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢
雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の
神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草
薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。[a]
■6.収奪と侵略の黄河文明に対抗できなかった長江文明■
馬に乗り、青銅の武器を持って南下してきた畑作牧畜の民に
とって、長江文明の民は敵ではなかった。彼らは精巧な玉器を
作る高度な技術は持っていたが、金属製の武器は持っていなか
ったからである。
金属器は農耕でも使われたが、それ以上に人を殺す武器とし
て発展した。長江文明より遅れて誕生した黄河文明は、金属器
を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作牧畜で階級
分化した社会では、支配者階級が金属器による武力をもって下
層階級を支配し、また近隣地域を侵略して支配を広げていく。
収奪と侵略の中で、金属器を作る技術はさらに急速に発展し普
及したのであろう。また階級分化した社会であれば、大量の奴
隷を兵力として動員する事も容易であったろう。
それに対し、長江の稲作漁撈民は自然の恵みの中で争いを好
まない文明を築いていた。インダス文明がまだ細石器を用いて
いた頃、彼らはすでに精巧な玉器を作る技術を持っていた。し
かし平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じ
なかったようだ。また平等な社会では、共同体の中から一時に
大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われる。
収奪と侵略に長けた北方の民が、馬と金属製武器をもって現
れた時、長江の民はとうてい敵し得なかった。平和に慣れた文
明が、武力を誇る北方の蛮族に敗れるという図式は、ローマ帝
国対ゲルマン民族、さらには後の中華帝国対蒙古・満洲族との
戦いにも共通して見られた現象である。
■7.苗族、台湾の先住民、そして弥生時代の日本■
漢民族の南下によって長江の民は次第に雲南省などの奥地に
追いつめられていった。その子孫と見られる苗族は今では中国
の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が
立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような
風景だという。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡
と同じである。かつての水田耕作を山岳地でも続けるために、
急勾配の山地に棚田を作っているのも、日本と同様である。
苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共
通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品
を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本
の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。
また明治時代に東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残し
た鳥居竜蔵は、実地調査から台湾の先住民族・生番族と雲南省
の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表し
ている。
長江文明の民が漢民族に圧迫されて、上流域の民は雲南省な
どの山岳地帯に逃れて苗族となり、下流域に住む一族は海を渡
って台湾や日本に逃れた、とすれば、これらの人類学的発見は
すべて合理的に説明しうるのである。
■8.日本列島へ■
日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(にに
ぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこ
から住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎
(かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫
(このはなのさくやびめ)を后とする。
天孫降臨の場所がなぜ日本列島の辺境の南九州であるのか、
この質問に真剣に答えようとした研究者は少なかった。どうせ
架空の神話だと一蹴されてきたからである。しかしどうにでも
創作しうる架空の神話なら、たとえば富士山にでも降臨したと
すれば、皇室の権威をもっと高めることができたろう。
笠狭崎は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着
する場所として知られている。天平勝宝5(753)年に鑑真が長
江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほ
どの距離にある坊津町秋目浦であった。
漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出
し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのであ
ろう。そこで日本の先住民と宥和した平和な生活を始めた。そ
の笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っ
ていたのであろう。
鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものであるが、羽根飾り
をつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土
している。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の
雲南省の遺跡から出土している。さらに弥生時代後期の岐阜県
荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな
船が描かれている。長江で育った民は、すでに高度な造船と航
海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたのであろう。
瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇も、船団を組んで瀬戸内海を
渡り、浪速国に上陸されたのである。[b]
■9.幸福なる邂逅■
当時の日本列島には縄文文明が栄えていた。たとえば青森県
の三内丸山遺跡は約5500年前から1500年間栄えた巨大集落跡で、
高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並
び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂り、また新潟
から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを
作っていた。[c]
日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生を大
切にする文明を持っていた。そこにやってきた長江の民も、稲
を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であった。両者ともに自然との共
生を原則とする「再生と循環の文明」であった。
この両者の出会いは「幸福な邂逅」と言うべきだろう。瓊瓊
杵尊が木花之開耶姫を后とされたという事がそれを象徴してい
る。神武天皇が九州から大和の地に移られた時も部族単位の抵
抗こそあったが、漢族と苗族の間にあったような異民族間の血
で血を洗う抗争という様相は見られない。
神武天皇が即位された時のみことのりである。この平和な宣
言こそ、わが国の国家として始まりであった。わが国は縄文文
明と長江文明という二つの「再生と循環の文明」の「幸福な邂
逅」から生まれたと言えるかもしれない。
以上は長江文明の発見から生まれた壮大な仮説であり、なお
考古学的、人類学的な立証が進められつつある。かつて古代ギ
リシャの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイアの都は伝説
上の存在と考えられていたが、子供の時からその実在を信じて
いたシュリーマンによって遺跡が発掘され、高度な文明をもっ
て実在したことが証明された。長江文明に関する研究が進展し
て、日本神話の真実性を立証する日も近いかもしれない。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(171) 「まがたま」の象徴するもの
ヒスイやメノウなどに穴をあけて糸でつなげた「まがたま」に
秘められた宗教的・政治的理想とは。
b. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」
神話にこめられた建国の理想を読む。
c. JOG(134) 共生と循環の縄文文化
約5500年前から1500年間栄 えた青森県の巨大集落跡、三内丸山
遺跡の発掘は、原日本人のイメージに衝撃を与えた。
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
安田喜憲、「古代日本のルーツ 長江文明の謎」★★★、
青春出版社、H15
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