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JOG(1377) 生涯にわたって変身を繰り返した渋沢栄一、その志は何だったのか?

 尊皇攘夷の志士から幕臣、政府官僚、実業家、社会事業家と変身を繰り返した一生は、一つの志に貫かれていた。


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■1.栄一の貧しい人々への思いの深さ

 新しい1万円紙幣の肖像画に渋沢栄一が取り上げられて、「日本資本主義の父」と紹介されています。たしかに渋沢は178社の立ち上げに関わり、その中には今日のみずほ銀行、日本郵船、東洋紡、東京ガス、東京電力、帝国ホテルなど、そうそうたる一流企業が並んでいます。

 しかし、営利企業よりも多い数の公益企業の立ち上げにも関わっており、その中には済生会、東京慈恵会、日本赤十字社、聖路加国際病院、一橋大学や早稲田大学、日本女子大学、同志社大学などが含まれています。

 栄一の人々への思いやりの深さがよく窺われる逸話が残っています。次のようなものです。

 昭和5(1930)年12月、90歳になっていた栄一の死の1年ほど前のことです。栄一は風邪を引き、もう老衰と言ってよい状態で、ほとんど寝たきりでした。そんなある日、20名ほどの全国方面委員会(現在の民生委員)の人々が面会を求めてやってきました。栄一は面会謝絶の状態でしたが、念のために報告したところ、顔ぶれを聞いて、どうしても会うと言い出しました。

 家族は総動員で看護にあたっており、皆で必死に止めましたが、栄一は言うことを聞きません。主治医はやむなく「5分だけですからね」と折れました。栄一はわざわざ服を着替えて、皆に会いました。白いヒゲが伸びて病人然とした格好に、みなぎょっとしましたが、彼らも必死です。

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 いま寒さと飢えに苦しむ窮民が二〇万人おります。政府は救護法という法律を作りましたが予算がないので一向に施行されておりません。どうか渋沢様のお力でなんとかしていただけませんでしょうか。[北、p397]
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 彼らの訴えにじっと耳を傾けていた栄一は深く頷きました。

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 私はこの年になるまで、及ばずながら社会事業に尽くしてきたつもりです。みなさんのお心持ちは実によくわかります。老いぼれた身体で、どれだけお役に立つか知れませんが、できるだけのことはいたしましょう。[北、p397]
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 栄一の温かい言葉に、来訪者たちの目には涙が溢れました。しかし、そこから、栄一は驚きの行動に出ます。

■2.「私が死んでも、二〇万人の不幸な人たちが救われれば本望です」

「すぐ車を用意せよ。大蔵大臣と内務大臣のところに行く!」

 こう言い出した栄一を周囲は必死に止めましたが、言うことを聞きません。秘書が仕方なく車の準備をし、急いで両大臣に電話をしました。二人は気遣って、自分の方から伺いますと言ってくれましたが、栄一はかぶりを振りました。

「頼みたい要件があって面会を申し込んだのだ。当方から参上しますと答えよ」

 真冬に、しかもほとんど寝たきりだった90歳の老人が外出するというのです。主治医も「命にかかわる」と止めましたが、栄一は静かにこう答えました。
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 先生のお骨折りでこんな老いぼれが養生しておりますのは、せめてこういうときに役に立ちたいからです。これがもとで私が死んでも、二〇万人の不幸な人たちが救われれば本望です。[北、p398]
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 こう言われては、主治医には返す言葉がありません。こうして栄一は出かけていきました。この時の栄一の尽力もあって、救護法は2年後に施行されましたが、その日を栄一は見ることはできませんでした。

■3.「八つの顔」「六本の腕」「一つの志」

 栄一の業績は、実業家と社会事業家だけではありません。生まれは埼玉県の豪農で、藍の商売を営んでいました。長じては尊皇攘夷の志士となり、一転して、後に最後の将軍となる一橋慶喜の家臣になりました。その弟、徳川昭武(あきたけ)の従者としてパリ万博に学びます。帰国すると幕府が瓦解しており、そこから明治政府に呼び出されて高官となります。

 しかし、栄達が約束されていた官僚の道を飛び出して、実業家、そしてついには社会事業家となるのです。身分としては、士農工商のすべてを経験し、最後は華族(子爵)にまで上り詰めました。実業家として多くの有力企業を残し、「日本資本主義の父」と言われるだけの実績を残した栄一ですが、それは栄一という巨人の、一面にだけ光をあてた姿でしかありません。

「八面六臂(はちめんろっぴ)」という古い言葉があります。八つの顔と6本の腕(ひじ)で、一人で数人分もの活躍をする様を言います。栄一の人生は、まさに「八面六臂」という言葉がふさわしいものでした。

 しかし、その「八つの顔」も「六本の腕」も、実は一つの共通した志が動かしていた、というのが、弊誌の捉え方です。その志とは冒頭のエピソードで示したような「死んでも、二〇万人の不幸な人たちが救われれば本望」というものでした。

 それは栄一の個人的な思いではありません。代々の天皇が「民安かれ」の祈りによって継承されてきた国家の歴史的な理想であり、その始まりは、神武天皇の建国宣言にまで遡ることができます。

 神武天皇は即位にあたって、人民を「大御宝」と呼び、その「大御宝を鎮(しず)むべし」と宣言しました。「民を大切な宝物として、安らかに暮らしていけるようにしよう」というのが、我が国の建国目的だったのです。

 豪農の家に生まれて、尊皇攘夷の志士、一橋家の家臣、政府官僚、実業家、社会事業家と、度重なる変身を遂げた栄一ですが、その各段階で、「大御宝を鎮むべし」という志が一本の背骨をなしていた様を、これから見ていきましょう。

■4.従兄から学んだ尊皇攘夷思想

 栄一の生まれた家は、武蔵の国の血洗島(ちあらいじま)、現在の埼玉県深谷市で、藍を商品作物として扱う豪農でした。地域の農家が育てた藍の葉を買取り、それを藍玉に加工して販売していました。「武州藍」として有名ブランドを確立しており、農家も藍葉を育てることで富に預かっていました。そのために、この地では抑圧された小作人による百姓一揆が起こらなかったといいます。

 そんな家に生まれ、栄一は7歳の頃から、従兄の尾高惇忠(あつただ)、号は藍香(らんこう)の漢学教室に通うようになりました。この惇忠はかつて水戸で水戸学を学んで、尊皇攘夷思想を信奉していました。

 栄一も、代官たちが武士の身分を笠に着て威張りちらすだけで、政治にはまるで無能なのを見ていたので、こんな腐った幕府では、アヘン戦争でイギリスに半植民地にされた清国の二の舞となってしまう、天皇を中心に日本が一つにまとまらねば、という尊皇攘夷思想が身に染みこんでいきました。清国のようになったら、苦しむのは自分の周囲にいる農民たちです。
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もし藍香の悲慣懐慨がなかったら、私も一生安閑として血洗島の農民で終わったかもしれない。私を故郷から出奔させたものは、藍香が水戸学に感化されたその余波である。[北、p43]
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 そもそもこの地域は、かつて尊皇の旗を掲げて、腐敗した鎌倉幕府を倒した新田義貞の荘園だったとされています。渋沢一族自体が、新田氏を祖とするという説もあります。栄一も新田義貞のことは幼い頃からよく聞かされていたはずで、尊皇という言葉は自らの使命とも宿命とも感じていたのではないでしょうか。

■5.尊皇攘夷の志士が、徳川御三卿の家臣に

 文久3(1863)年、23歳の栄一は、近隣の同志たち数十名とともに、攘夷の実行計画をたてます。近くの高崎城を乗っ取って武器を奪い、外人たちが住む横浜を焼き払う、というものです。しかし、この計画は惇忠の次弟・長七郎が「この計画は暴挙である。中止すべきだ」と身体を張って、止めました。後年、栄一はこう述懐しています。
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 長七郎の命を張った反対がなく、予定通り計画を実行していたならば、間違いなく同志全員が討ち死にしていたことだろう。[北、p63]
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 やむなく栄一は、この計画中止の直前に、「一橋家の家臣にならないか」と声をかけてくれていた一橋家御用人の平岡円四郎を頼って、家臣になってしまいます。平岡は一橋家に有能な人材を集めようと関東一円に網を張っていて、栄一にも目をかけてくれたのです。

 一橋家といえば、徳川御三卿の一つ、将軍も出せる家柄です。しかし、当主の慶喜は水戸藩主・徳川斉昭の7男。水戸の出身なら、尊皇攘夷にも理解があるはず、と栄一は当初は思っていました。

 そこで、平岡にとうとうと尊皇攘夷を説いたところ、平岡は「攘夷は無謀な考えである」ときっぱりと断言しました。慶喜公もすでに開国主義になっているといいます。栄一は驚いて、それではとても家臣にはなれない、と思います。

 しかし、決起の中止を受け、もしその計画が後で幕府に漏れたら、みな打ち首にされてしまうかも知れません。自分が一橋家に仕官していることで、仲間の助命も図れるのでは、とも考えたようです。こういう次第で、尊皇攘夷の志士が一転して、徳川御三卿の家臣となる、という破天荒な変身となったのです。

■6.丁髷(ちょんまげ)を切り、洋服を着る

 一橋家の家臣として、栄一は持ち前の商才を発揮して、領地・播磨(兵庫県南西部)特産のさらし木綿を、それまで住民が個別に大阪に売りに行っていたのを、まとめて売ることで価格を上げ、栽培農家も織物業者もやる気を出して品質もあがり、さらに価格をあげる、という好循環をもたらして、一橋家の財政も豊かにしました。

 尊皇攘夷とは、もともと我が国の民を清国のような運命から救うという目的のものでした。一橋家の家臣として行ったのは、領民たちをより豊かに、元気にするということです。立場はまるで変わっていますが、「民を安んずる」という目的では繋がっています。

 一橋家の家臣となって2年目、一橋慶喜が将軍となり、栄一はなんと幕臣となってしまいました。その翌年には、将軍の弟・徳川昭武の従者として、パリ万博を見学します。

 欧州では、商人と軍人が対等に付き合っているのを見て、日本も独立を維持するには、武士も商人も対等に力を合わせなければ、と思うようになりました。そのあげくに、丁髷(ちょんまげ)を切り、洋服を着るようになりました。

 その写真を手紙で受け取った妻・千代は、目を丸くしました。わずか一年前には、一橋慶喜の家臣として第二次長州征伐に赴く栄一から「武士の妻としての誇りと覚悟を持て」という手紙を懐剣とともに受け取ったばかりでした。倒幕を叫んでいたのに、一橋家に仕官してしまったのにもあきれましたが、今回はさらなる変身です。

 千代は兄・惇忠に、あまりにひどいと訴えましたが、「姿はどんなに変わっても大和心を失う彼ではない。むだな心配は無用だ」と諭されました。その「大和心」とは、日本の民をいかに救うか、ということでしょう。富強を誇る西洋文明の知恵をできる限り吸収して、日本に持ち帰ることが、今の自分の使命だと考えたのです。

■7.株式会社制度は「大御宝」を活躍させる道

 西洋の制度文物のなかで、栄一が興味を引かれたのは、株式会社制度です。株式を発行して、広く資金を集め、それによって様々な事業を展開していく。それは多くの大御宝を、資本家や従業員として活躍させる有効な方法でした。

 大御宝とは、今日の生活保護のように、物質的な最低限の生活を保障される、受け身的な存在ではありません。それぞれが多様な才能、適性を生かして、自らの処を得て、主体的に国家社会を支える生き方です。栄一は、帰国してから、この株式会社制度を活用して、様々な事業を起こしていきます。また、社会事業に対しても、自ら寄付をするだけでなく、広く社会に寄付を呼びかけました。

 こういうところにも、栄一が「大御宝を鎮むべし」の考えを中心に、その時々の立場は様々に変わっても、その立場でできること、なすべきことをやってきたことが窺われます。

■8.社会主義者も「渋沢栄一翁の逝去を悼む」

 渋沢が亡くなると、歌誌『アララギ』にこんな弔歌が載りました。

  渋沢栄一翁の逝去を悼む
 資本主義を罪悪視する我なれど君が一代(ひとよ)は尊(とうと)くおもほゆ

 資本主義とはあくまで手段でした。その手段によって渋沢が目指していたのは、株式会社制度で、皆のお金と知恵を集めて事業を興し、その事業が生み出す製品やサービスによって、世の中を豊かにする。それによって国が富強になれば、独立を守り、日本の民を安寧に保つことができる、ということでした。

 日露戦争以降、日本の独立が確立できた暁には、社会事業家として、恵まれない人々を支える事業を次々と興しました。それは当時の社会主義者たちが訴えていたことでした。

 我が国の「大御宝を鎮むべし」には、手段としての資本主義も社会主義も抱き込んでしまう懐の深さがあるのです。その深い志を一心に追求したのが、栄一の長く豊かな一生だったのです。今後の我が国の歩むべき道を考える上でも、栄一の生き方と志をよく味わっておく必要があります。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

・JOG(279) 日本型資本主義の父、渋沢栄一
 経済と道徳は一致させなければならない、そう信ずる渋沢によって、明治日本の産業近代化が進められた。
https://note.com/jog_jp/n/n20d268da4658

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

・北康利『乃公出でずんば 渋沢栄一伝』★★★、KADOKAWA、R03
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4046048808/japanontheg01-22/

■伊勢雅臣より

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