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JOG(1083) 天皇主権と国民主権

「主権」という言葉が日本人にはピンと来ないのは何故か。


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■1.腑に落ちない「国民主権」の概念

 東京書籍版中学公民教科書(東書)は「国民主権」に関して、次のように説明する。

 日本国憲法の基本原理の一つである国民主権は,国の政治の決定権は国民が持ち,政治は国民の意思に基づいて行われるべきであるという原理です。全ての人間は自由で平等であるため,国の政治は,一部の人々だけでなく,国民全員によって決定されなければなりません。国民主権とは,このような民主主義の思想の現れです。[1, p40]

「国の政治の決定権は国民が持ち,政治は国民の意思に基づいて行われる」と言われても、抽象的な説明で、中学生どころか一般国民にもピンと来ないだろう。育鵬社版(育鵬)はこう説明する。

 日本国憲法は前文で「主権が国民に存すること」を宣言しています.主権とはその国のあり方を最終的に決定する権力のことであり,その中には憲法を制定したり,改正するなどの大きな権限も含まれています.この主権が国民にあることを国民主権といいます。[2, p50]

「国のあり方を最終的に決定する権力」という説明は、もう一段踏み込んでいるが、これでも腑に落ちない。「主権」という概念自体が外国製で、日本人には歴史的になじみがないからだろう。

■2.主権をめぐる国王と民衆の戦い

 小室直樹氏の『日本人のための憲法原論』[3]では、フランスの思想家ジャン・ボダンが絶対王権の理論的根拠を与えるために主権概念を提唱したとして、次のように説明している。

 彼は1576年、『国家に関する6章』を著わして、その中で「主権」という概念を提唱しました。 ボダンは主権を定義して「国家の絶対にして永続的な権力である」としました。 国家主権が絶対であるというのは、他の何者の拘束も受けないということです。 教会が何と言おうと、大貴族が文句を言おうと知ったことではない。国家は主権者たる国王の所有物なのだから、それを自由に扱うことができる。[3, p101]

 ヨーロッパ絶対王権の典型は1643年から72年間も王位にあったフランスのルイ14世だろう。太陽王と呼ばれ、ベルサイユ宮殿を建設した。ルイ14世が発したとされる「朕は国家なり」の言葉は絶対王権の本質を表している。

 小室氏の解説によれば、王は主権者として、好きなように法律を作ることができる。国民に自由に課税したり、徴兵できる。立法権、課税権、徴兵権などは国家統治の中核的な権限で、それが国王にあったのだから、まさに「朕は国家なり」であった。

 王が独占していた主権を、民衆が様々な闘争や革命を通じて自分たちのものにしていく。これが、現在の「国民主権」という原理になった。こういうヨーロッパの主権を巡る闘争の歴史を踏まえないと、「国民主権」と言われてもピンと来ないのも当然である。

■3.「天皇主権」? 

 東書は「大日本帝国憲法と日本国憲法との比較」[1, p39]で、大日本帝国憲法では「天皇主権」だったのが、日本国憲法では「国民主権」となった、と記述している。そして天皇は「神聖不可侵で統治権を持つ元首」だったのが、「日本国・日本国民統合の象徴」になったとしている。

 この説明が正しいとすれば、天皇はフランスのルイ14世のように、好き勝手に法律を作り、必要なだけ国民に課税し、勝手に国民を徴兵しては戦争を起こしてはいたのだろうか? 育鵬では、「大日本帝国憲法の制定」の項で天皇の地位について、次のように述べている。[2, p48]

 天皇は国の元首であり,国の統治権を総撹する(すべてまとめてもつ)のであるが,法の規定に従って統治権を行使するものと定められました。 
 具体的には,法律の制定は国民の意思が反映された議会の協賛(承認)によること,行政は国務大臣の輔弼(助言)によること,司法は裁判所が行うこととされました。 

 議会、大臣、裁判所を無視しては天皇は何もできなかったのでは、ルイ14世とは似ても似つかない。「統治権を総攬する」のと「主権を行使する」のとは、だいぶ違うようだ。

■4.「権威と権力の分離」

 自由社版では「立憲主義を受け入れやすかった日本の政治文化」と題した2ページのコラムで、次のように説明している。

 明治維新により国民国家が形成され、大日本帝国憲法の制定により、立憲君主制の立憲主義の国家が成立した。この立憲君主制は欧米の政治体制を参考にしながら、わが国の伝統的な政治文化に調和させてつくったものである。
 古代、天皇の重要な役割は民のために神に祈ることだった。同時に天皇は、実際に政治を行う政治的権力ももっていた。しかし、歴史が進むにつれ、政治的権力から遠ざかっていった。特に鎌倉幕府が開かれてからは、天皇は自ら権力を行使することはなかった。
 それでも、天皇の存在は政治権力に対し、政治を行う地位を与える権威として存在し続け、政治権力は、天皇の権威を押しいただいて政治を行うことが日本の政治文化としての伝統となった。政治権力は、天皇のもとで築いた古い文化を破壊したりすることは少なく、「民安かれ」と願う天皇の思いを受け止めて、民を過酷に扱うようなことは少なかったとも考えられる。
 権威としての天皇が存在し続け、政治が大いに安定し、外国に比べて平和な時代が長く続き、文化は着実に成熟していったと考えられている。
 大日本帝国憲法下の天皇が統治権を総攬する一方、実際の政治は立法、司法、行政の三権に任せる立憲君主であり続けた背景には、このような権威と権力の分離があったのである。[4, p48]

「権威と権力の分離」とは、日本の政治文化を語る上での重要なキーワードである。主権とは最高の「権力」であるから、「権力」を持たない以上、「天皇主権」とは言えないことになる。

■5.明治天皇は「主権」を持っていたのか?

 実際の史実を見てみよう。日清戦争の前、大国清は西洋から世界最新最大級の巨艦を購入し、日本をはるかに上回る海軍力でわが国に脅威を与えていた。

 しかし、日本国内では政争のために海軍拡張の予算が国会を通らないので、明治26(1893)年、明治天皇は宮廷費の一割にあたる30万円を6年間削って軍艦建造費に充てるという勅語を出された。この勅語に議員たちはただちに政争をやめて、年俸の4分の1を上納することを決議した。国民からも多額の寄付が寄せられた。

 この国をあげての建艦によって、我が国は小型でも高速航行のできる艦隊を建設し、日清戦争に勝つことができたのだった。

 もし明治天皇がルイ14世のような主権を持っていたら、そもそも自ら宮廷費を削る必要などなかったはずだ。国会は無視して、他の予算を建艦費に回すよう、一言命令すれば済んだはずである。国庫に金がなかったら、必要なだけ課税すれば良い。

 しかし、このやり方ではすぐに予算は手当できても、勝手に課税されたり、予算を流用された国民はそっぽを向いて、国家の危機を我がこととして立ち上がることなど、しなかったろう。天皇の自らの出費を抑えても建艦費を捻出するという姿勢によって、議員も国民も国家の危機に目覚めて、年俸を削ったり、寄付をしたりしたのである。これが真の国民国家の姿である。

 一方、清国の西太后は自らの還暦を祝うために、軍艦購入費約45百万円を流用して、頤和園という庭園を造った。ルイ14世に匹敵する堂々たる「主権者」である。

■6.「合議の伝統」 

 自由社は同じコラムの後半で、「合議の伝統」と題して次のように述べている。

 日本では古くから話し合って物事を解決し、できるだけ力の争いは避けるべきだという考え方が存在していた。
 7世紀、聖徳太子は、十七条憲法の第1条において「和を以って尊しとなす」と謳い、政治は一人だけの独断ではなく、人々が議論をつくして行わなければならないと説いた。天皇が政治の中心であった古代律令国家でも、重要な事項は、有力貴族が集まる公卿会議で決めていた。
 合議の伝統は、鎌倉時代からの武家政治においても引きつがれ、江戸時代でも、幕府の重要な役職は複数の人間が担当し、全員の合議で決めていた。合議によってものごとを決めれば、極端な結論が避けられ、多くの人も納得する結論になりやすい。
 庶民の社会でも、村寄合や町寄合によって村や町の方針が決められていた。その経験が、近代において町村議会を生み出していく基礎になっている。
 このような歴史的背景のもとに、明治政府を樹立するにあたつて、いちはやく「五箇条の御誓文」を出し、その第1条で「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と宣言することもできたのである。 日本ではこのように、古くから合議を重んじる伝統があったために、近代西洋で発達した議会での話し合いを重んじる立憲主義を容易に受け入れることができたのである。[4, p49]

 古代のギリシャ、ローマ、ゲルマン部族には「民会」の伝統があった[a]。この伝統の「根っこ」が生きていたからであろう、一時期、絶対王政が発達したが、やがて抑えつけられていた民衆が立ち上がって、王と民衆のせめぎ合いの中から、近代の議会制民主主義が発達した。

 わが国では、「合議の伝統」がずっと生き続け、その根っこにつながる形でスムーズに近代的な立憲政治に移行できたのである。ただし「主権」を巡っての争いを経験していないから、「国民主権」と言われても、ピンとこないのは当然である。

 一方、合議や民会の伝統を持たない国は、そもそもの「根っこ」がないから、いきなり民主主義を教わっても、定着しない。朝鮮「民主主義」人民共和国などと看板だけ掛け替えても、すぐに古代王政に先祖返りしてしまうのである。

■7.「知らす」と「天皇不親政」

 東書が教えるところは、国王主権から革命や内戦を経て国民主権に移行したという西洋の歴史をそのまま日本に当てはめ、「戦前は天皇主権、戦後は国民主権」と単純な図式に仕立て上げただけのように見える。これでは西洋の学問を直輸入して、それを先進的と崇め奉る後進国的姿勢である。 

 弊誌1069号[b]でも述べたように、大日本帝国憲法起草にあたった伊藤博文は19世紀ヨーロッパにおける政治・社会学の権威、ウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授から、「法は民族精神・国民精神の発露」であり、国民の歴史の中から発達していくものとする、当時ヨーロッパを席巻していた歴史法学の説明を受けた。

 そこで、伊藤のもとで条文の起草にあたった井上毅(こわし)は『古事記』を研究し、そこに「知らす」という言葉を見つけた。この点について、自由社は次のように説明する。

(側注1)大日本帝国憲法第1条
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」 明治政府が刊行した憲法の解説書は、天皇の「統治」を「シラス」という古語で説明し、天皇は国民に権力をふるう存在ではなく、国民の幸不幸を一身に受けとめながら国を統治する、と説明している。[4, p46]

 国民の幸せを祈るのが天皇の役割であり、その祈りを受けて、政治家たちがよく議論をしながら国政を行っていくのが、合議の伝統である。そこでは、天皇は直接的な意志決定を行わない。これを「天皇不親政の原則」という[5, p89]。

「知らす」「不親政の原則」「合議の伝統」、これらがセットとなって日本の政治伝統を形成してきた。こういう史実を知れば、「天皇主権」などという言葉が軽々しく出てくるはずもない。

■8.公民で学ぶべき日本人の「根っこ」

 我が国の歴史や政治の実態も見ることなく、西洋の歴史図式をそのまま当てはめて事足れりとする後進国的な学問のあり方に比べれば、大日本帝国憲法を起草した伊藤博文や井上毅の見識の高さが窺われる。

 シュタイン博士の「法は民族精神・国民精神の発露」という主張は、公民教育においても重大な示唆を投げかけている。わが国の法・政治制度をさらに発展させていくためにも、「民族精神・国民精神」の涵養が欠かせないからだ。

 上述の「知らす」「不親政の原則」「合議の伝統」のような歴史は日本人の「根っこ」であり、そこから栄養分を得て、国民は現在の法や政治制度を生かし、発展させていくことができる。わが国の民族精神・国民精神をまるで無視した公民教科書では「根無し草」しか育たないのではないのだろうか?

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a.

b.

c. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本の教育』、育鵬社、H29

■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 『新編新しい社会公民 [平成28年度採用]』、東京書籍、H27

2. 『新編新しいみんなの公民 [平成28年度採用] 』、育鵬社、H27

3. 小室直樹『日本人のための憲法原論』★★★、集英社インターナショナル、H18

4. 『中学社会新しい公民教科書』、自由社、H23




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