JOG(1359) 小澤征爾を育てた多くの人々の「無私の好意」
これらの人々の一人でも欠けていたら、「クラシック音楽の世界を激変させた立役者」は生まれなかったかもしれない。
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■1.小澤征爾を育てた「無私の好意」
小澤征爾が亡くなりました。Newsweek日本版では早速、「世界が愛した小澤征爾」の特集を行い、表紙には60歳頃にボストン交響楽団をダイナミックな身振りで指揮する小澤の写真を飾っています。特集記事の冒頭には、こう書かれています。
日本人が西洋のクラシック音楽に挑むことの意義はどこにあるのか、については、また弊誌でも別の機会に論じたいと思いますが、アジア人に西洋音楽が分かるはずがない、という「偏見」を、小澤自身が乗り越えることができた背景には、小澤を引き上げ、後押しした多くの人々の助力がありました。この点を、『小澤征爾 覇者の法則』の中で、著者・中野雄氏はこう述べています。
この本では、「お前のためなら」と小澤を助け、「無私の好意」を小澤に注ぎ込んだ人々が何人も登場します。それらの人々が一人でも欠けていたら、「クラシック音楽の世界を激変させた立役者」は生まれなかったのかも知れないのです。それらの人々を以下に見ていきましょう。
■2.無料でピアノを教えてくれた豊増昇先生
小澤は中学生の時に、東京世田谷区にある成城学園に通っていました。私立の名門校ですが、小澤の家は貧しく、学園内の掲示板に貼られた授業料滞納者一覧の常連だったそうです。そんな無理をしても、子供に良い教育を受けさせたいと、両親は成城学園に通わせていたようです。
小澤は中学入学と同時に、バッハ演奏の権威として名声の高かったピアニスト・豊増昇にピアノを教わるようになります。と言っても、両親は音楽家に育てるつもりもなく、「男の子でも楽器の一つくらいやってもいい」という程度の考えだったようです。
豊増へのレッスン代も滞りがちでした。長期間滞納した後、母親がレッスン代を持って行くと、「いい」と言って受け取りません。そして、いつの間にか、レッスンは無料となりました。
豊増が、小澤の音楽家の将来を見越していたのかというと、小澤の腕はそれほどでもなく、レッスンを豊増の子息が脇で聞いていて、「この人へただね」と言ったという逸話もあります。
当時、小澤はラグビー部にも属していて、ピアノとラグビーの両方で頑張っていました。母親は次のような思い出を書いています。
特にピアノの腕が秀でていた訳でもなく、またプロを目指すには年齢も遅すぎ、しかもラグビーとの掛け持ちという小澤を、どうした豊増先生は、これほど温かく親切に教えたのでしょうか?
ここから、著者・中野氏の「無私の好意を引き出してしまう特異な才能」を小澤は持っていたのでは、という思いに至るのですが、「どんなにラグビーの練習でへばっても、ピアノのレッスンは一回も休まずに行った」という小澤のひたむきな姿勢に、豊増先生は損得や打算を超えた「無私の好意」で指導したのではないか、と思われます。
■3.窓から裸足で逃げ出すほど厳しいレッスンをした齋藤秀雄先生
中学3年の時に「作曲家か指揮者になりたい」と思っていた小澤は、母親の遠縁に齋藤秀雄という指揮者がいることを知り、単身自宅を訪問して、弟子入りを申し込みました。齋藤は「普通だったら、たいてい父親か母親が一緒にやってくるのになあ」と洩らしたそうです。このあたりに、小澤の思い込んだら、一途に突進する性格が、窺えます。
齋藤は小澤の哀願を受け入れ、「来年桐朋学園という音楽学校をつくるから、それまでよく勉強しておくように」と言いました。小澤はその言葉通り、一年、成城学園の高等部で過ごした後、桐朋学園の音楽科に入りました。その齋藤先生から、小澤はこんな指揮のレッスンを受けます。
終戦後まだ十数年、日本はまだ貧しく、1ドル360円の時代でした。そんな中で、齋藤は「この国に本物の西欧クラシック音楽を根付かせたい。世界に通用する音楽家達を育て、羽搏(はばた)かせたい」という志を抱いていました。
齋藤先生の指揮法の教授は、基礎訓練を徹底的に完璧にやるというものでした。後にフランス・ブザンソンでの指揮者コンクールで、小澤が1位になった時の最終本選は、新作の楽譜を5分間見ただけで指揮をする、というものでしたが、小澤の指揮は出色の出来で、客席にいたその新作の作曲者が「ブラボー」と叫んだほどでした。
優勝したあとのインタビューで、小澤は現地の新聞記者に対し、「この程度のことは、日本の音楽教育の過程ではほとんど基礎的なことに過ぎない」と語って、彼らを驚かせました。窓から裸足で逃げ出すほどの厳しい訓練に耐えた小澤の成果ですが、同時にそれほどまで真剣に小澤を鍛えた齋藤先生の「無私の好意」の賜でもあります。
また齋藤先生は学内でオーケストラを作り、その訓練に熱中しました。そして裏方のスタッフの仕事、ステージの椅子や譜面台並べや、楽員用のパート譜印刷の発注・校正の作業は、すべて小澤一人に任せました。この時の経験から、後に海外のオーケストラの常任指揮者や音楽監督を務めるようになってからも、裏方スタッフに対する目配りが利くとして、どの楽団でも評判は上々でした。
齋藤先生の門下からは、後に世界的に活躍する指揮者や演奏者が数多く育ちました。後年、小澤が中心となり、それらの人々とともにサイトウ・キネン・オーケストラが組織され、毎年フェスティバルが開かれる、というのも、門下生たちがどれほど齋藤先生の恩を慕っているか、の証左でしょう。
■4.ヨーロッパ行きを助けてくれた人々
やがて小澤は「外国の音楽をやるためには、その音楽の生まれた土、そこに住んでいる人間、をじかに知りたい」と、海外留学を熱望するようになります。しかし、フランス政府が費用を出してくれる留学生試験には見事、失敗。「ヨーロッパに音楽の勉強をしに行きたい」という執念だけで、留学先も、入学しようとする学校も、師事したいという先生も、一切あてがないまま、それもコンクール歴も何の肩書きもないまま、小澤は資金集めを始めます。
さらに救い主が現れます。当時、三井不動産の社長の地位にあった江戸英雄です。夫人はピアニストで、桐朋学園で後進の指導にあたっており、長女の京子は征爾と同級生で、既にパリに留学中でした。江戸の紹介で、小澤は三井船舶の貨物船に乗せてもらえることになりました。貨物船ですから、客は小澤征爾一人です。
船はマルセイユまでで、パリまでの交通手段が必要です。小澤はスクーターを借りようと都内のスクーター・メーカーを駆け回り、父親の縁で、富士重工から新品のラビットを借りることに成功しました。
そして富士重工の「日本国籍を示すこと」「音楽家であることを示すこと」という条件を満たすべく、マルセイユからパリまで約2週間、ヘルメットに日の丸の鉢巻きを締め、ギターを担いで走りました。
パリでは江戸の長女で同級生の京子が世話をしてくれました。上述のブザンソンの指揮者コンクールのことを教えてくれたのも、京子でした。後に小澤は京子と結婚しますが、お互いのキャリアを目指しての生活では波長が合わず、離婚。しかし、小澤はこう語っています。
■5.「セイジ・オザワの運命の扉を開いた」マダム・ド・カッサ
京子に教えられたブザンソンの指揮者コンクールに、早速応募しましたが、手続きの不備で締め切り日に間に合いませんでした。しかし、それであきらめる小澤ではありません。日本大使館に駆け込んでみましたが、管轄外のコンクールの受験の、しかも締め切りに間に合わなかったから何とかしてくれ、という手助けなどしてくれるはずもありません。
そこで思い出したのが、アメリカ大使館の音楽担当事務官でプロのバイオリニストでもあるマダム・ド・カッサ。小澤はこの「太ったおばさん」に委細を話すと、「お前はいい指揮者か、悪い指揮者か」と聞かれ、小澤が「自分はいい指揮者になるだろう」と答えると、ゲラゲラ笑い出しました。
そして、ブザンソンの国際音楽祭事務所に長距離電話をかけて「遠い日本から来たのだから、特別にはからって受験資格を与えてやってほしい」と頼み込んでくれました。その後、2週間余りで、アメリカ大使館経由でコンクール受験資格許可の通知が届きました。
パリのアメリカ大使館員が、日本人のために、それもこんな筋違いの哀願に応えてくれるのは、まさに常識外のことです。その後、小澤のコンクール優勝と、それからの活躍ぶりにマダム・ド・カッサは目を細め、「セイジ・オザワの運命の扉を開いてやったのは私だ」と誇らしげに周囲に語り続けたそうです。彼女の「無私の好意」がなければ、小澤の成功もなかったかも知れません。
■6.小澤を猛烈に叱った井上靖
しかし、ブザンソンで優勝しても、仕事はほとんどありません。日本の友人から「日本で一緒にやりましょう」との誘いもあって、もうヨーロッパを諦めて、日本に帰るつもりでした。そんな時に会ったのが、作家の井上靖です。井上靖はローマ五輪の取材の帰りで、小澤がパリの案内をしました。
レストランで食事をしながら、井上靖に「日本に帰るつもり」というと、「とんでもない」と猛烈に叱られました。
井上靖の「無私の好意」は、その2年後にも繰り返されました。1961年に20代半ばの若さで、NHK交響楽団の指揮を任されますが、感情的な軋轢のため、楽団員からボイコットされるという事件が起きました。「世間の同情は一方的に小澤に集り、出る釘を打とうとする子供いじめのNHKに対する非難が集中した」と石原慎太郎は書いています。
この事件で、井上靖や石原慎太郎など22人ものそうそうたる文化人たちが、「小澤君に思う存分、腕をふるってもらいたい」と日比谷公会堂で音楽会を開きました。前売り券は2時間で売り切れ、開場前には千人近い聴衆が行列を作りました。
小澤の魂の籠もった指揮で、満場は興奮の坩堝(るつぼ)と化し、終演後、小澤は5回も6回もカーテン・コールを受けて、ステージに現れました。その舞台の袖では、感激のあまり、涙を拭っていました。この後、小澤は背水の陣でアメリカに行き、シカゴ交響楽団の指揮で全米で有名になります。
ここから、トロント交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、ボストン交響楽団、そして、ウィーン国立歌劇場の音楽監督など、「クラシック音楽の世界を激変させた立役者」となっていきます。
その華々しい活躍は常人の真似できるところではありませんが、小澤を育てた無数の人々の「無私の好意」は我々にもできることです。我々それぞれの一隅を照らす「無私の好意」が、周囲のロウソクに火を灯し、灯りが広がっていきます。そうした中で小澤のような巨大なロウソクにも火が灯され、社会全体が明るくなっていくのでしょう。
(文責:伊勢雅臣)
■おたより■
■伊勢雅臣より
人間が育つのは、本人の努力と、周囲の「無私の好意」の賜ですね。とすれば、各自の努力と周囲の好意がもっともっと盛んになれば、いろいろな分野で、逸材が現れてくるでしょう。「世界の小澤」までならなくとも、各自が周囲を照らす「一隅」がもっと広がれば、それだけ明るい国になるはずですね。
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■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
・Newsweek、R060227、「世界が愛した小澤征爾」
・中野雄『小澤征爾 覇者の法則』(Kindle版)★★★、文春新書、H26
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