見出し画像

【YouTube版】楠木正成公と「和の国」の根っこ

 楠木正成公が示した「和の国」の根っこが、我が国の歴史を変え た。

■1.「有為の人物を動かさずにはいない」

 正月休みに大阪府南河内郡の千早城跡に登ってみた。後醍醐天皇が隠岐に流された後、元弘2(1332)年9月に楠木正成が挙兵した山城である。当時の世の乱れた様は、歴史学者・植村清二氏によれば、以下のようであった。

__________
 一般に諸国の御家人の生活が窮迫しているのに反して、北条氏の一族は権力と富とを独占して、羨望と不平とを招き、それでいながら彼ら自身の政治は公正を失い、その実力は衰弱しつつあった。その権威は失われ、民心は離反した。この人民の動揺と革命への期待は、有為の人物を動かさずにはいない。[植村,p46]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 まさにこの「有為の人物」として立ち上がったのが、正成であった。正成は、千人足らずと言われる軍勢に次のように呼びかけた。

__________
 この城(千早城)において二年間は戦おう。そうすれば、そのうちに高時(鎌倉幕府の執権・北条高時)に背く者はいくらでも出て来るだろう。[家村,p83]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 正成の見通しは、わずか半年で実現した。この山城に幕府の兵数万を引きつけている間に、後醍醐天皇は隠岐を脱出され、鳥取の船上山から倒幕の綸旨を出された。それに応えた新田義貞、足利高氏(後の尊氏)らが叛旗を翻して、鎌倉幕府は1か月のうちに滅びてしまう。

【続きは本編でご覧ください】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?