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JOG(1209) 司馬遼太郎が描き損なった「和の武人」乃木希典

『坂の上の雲』は「乃木愚将論」に固執することで、世界の称賛を浴びた「和の武人」を描き損なった。


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■1.「祖母から乃木大将の話や歌を教えてもらいました」

 以前、ある講演で乃木希典大将のお話をした際に、熱心な感想を多数いただきました。その中で乃木大将の事を祖父母から聞いていた、というお便りが2件ありました。

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(Emiさん) 小さい時、祖母から乃木大将の話や歌を教えてもらいました。思い出しながら拝聴しておりました。今も頭に流れています。
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(一視聴者さん) 私の祖父母は明治32・36年生まれで、英雄といえば乃木大将でした。私も小さい頃は乃木大将は古いなーとしか感じておらず、中学の時に先生から「金州場外の作ー乃木希典」という詩吟を教わったのですが暗い印象しかなかったです。
しかし、海外では乃木大将は日本の誇る英雄であり、敗者のロシアの将軍にも敬意をもって接した武士道が世界に評価されたこと、そしてそれが明治天皇からの命令であったことを知り、日本の教育はどうしてこういう大事なことを教えないのかと感じました。
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 乃木大将は戦前の「英雄」から、戦後は無視、あるいは「愚将」と180度評価が変わっています。そこに現在の教育問題が窺えるのです。
以下、この点を見ていきましょう。

■2.「児玉は、成功した」という「真っ赤な嘘」

 現在の歴史教科書では乃木大将も登場しませんから、乃木将軍を知っていても、愚将であるかのように捉えている人が多いのは、司馬遼太郎氏の総発行部数2千万部という超ベストセラー『坂の上の雲』の影響でしょう。

 司馬氏の作品群が幕末から明治にかけての自虐史観を払拭したことは大きな功績ですが、時々、その作品を面白くするがために偏った人物描写をしており、それによる歪んだ史観も広まってしまいました。その最たる例が乃木大将です。

『坂の上の雲』では、「無能な乃木大将」に任せていては将兵がムダに死んでしまうだけで203高地は一向に落ちず、それでは旅順港内に逃げ込んでいる旅順艦隊は壊滅できず、やがてバルチック艦隊がやってくれば、日本海軍も二倍の相手に負けてしまい、その結果、満洲に進攻している日本陸軍も補給を受けられず、全滅してしまう、と、当時の日本が直面していた危機を描きます。

 そこで児玉源太郎総参謀長が乃木の司令部にやってきて、乃木大将から指揮権を一時的に取り上げて、作戦変更し、それが功を奏して203高地が落ちた、という筋書きになっています。作戦変更を命ずるシーンは次のように描かれています。

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 児玉は(JOG注: 命令に反対する砲兵少佐の)奈良をおさえ、
『命令。二十四時間以内に重砲の陣地転換を完了せよ』と、大声でどなった。結果からいえば、児玉の命令どおり、二十四時間以内に重砲は二〇三高地の正面に移されたのである。[司馬、1143]
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 そして、この結果をこう描いています。

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 児玉は、成功した。
 かれは砲兵陣地を大転換することによって歩兵の突撃を容易ならしめ、六千二百の日本兵を殺した二〇三高地の西南角を一時間二十分で占領し、さらにその東北角をわずか三十分で占領した。明治三十七年十二月五日である。[司馬、1440]
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 しかし、陸軍士官学校卒で大東亜戦争では砲兵中隊長として従軍し、戦後は自衛隊で陸将補まで務められた桑原嶽(たけし)氏は著書で、こう批判しています。

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 しかし、これは真っ赤な嘘である。
 実際に陣地変換した火砲は前述したように十二サンチ榴弾砲・一五門、九サンチ臼砲・一二門だけである。当時の第三軍の全火砲・三百数十門の数パーセントに過ぎない数である。
 (JOG:攻略の中心となった)二十八サンチ榴弾砲のごとき陣地変換など全然していない。はじめからできるはずがないのである。[桑原、3253]
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 司馬氏は「砲兵陣地を大転換」して「児玉は、成功した」と描きましたが、その「大転換」とはわずか砲数の「数パーセント」に過ぎず、「真っ赤な嘘」だというのです。

 203高地への攻撃目標転換も、重砲の布陣も児玉が到着する前に、乃木軍がすでに行っていたことでした。その上で、総参謀長のような高官が「数パーセントの重砲」の配置というような下級参謀が担当するような細かな戦術に口を出すとも思えません。たとえそれが事実だとしても、それが203高地攻略の大きな成功要因になったはずはありません。

「児玉は、成功した」というわずか8文字に、司馬氏の作り話ぶりが如実に表れているのです。

■3.児玉総参謀長は何をしに来たのか?

 それなら、何のために児玉は総参謀長の重要な仕事を投げ出して、乃木軍の戦いに馳せ参じたのでしょうか? 桑原氏はこう推測しています。

 乃木大将が、203高地の攻略に集中するという決心をしたのは、11月27日朝でした。前日に乾坤一擲の第三回総攻撃を始め、ロシア側の頑強な抵抗に阻まれて難航していました。桑原氏はこう記しています。

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しかし、この決心の変更は乃木にとっては最後の賭けである。おそらくこの時、乃木は死を覚悟したことであろう。この決心の変更は直ちに満洲軍総司令部に報告された。この報告に接した大山も児玉も、多分、乃木の死を直感したのだろう。
 盟友乃木を殺してはならぬ。児玉はそう覚悟したに違いない。
 十一月二十九日午後八時、烟台の総司令部を出発し、児玉は急遽旅順に向かう。[桑原、3156]
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 かつての西南の役では、乃木は部下の過失から天皇からいただいた軍旗を失う、という失態の責任をとって自刃しようとしました。隣室で密かにその気配を察していた児玉が、その瞬間に飛び込んで、「過失(あやまち)を償うだけの働きをしてから死んでも遅くはあるまい、それが真の武士道だ」と説いて、乃木を思いとどまらせました。[JOG(802)]

 乃木と児玉はこのように深く結ばれた盟友だったのです。その二人の絆を考えれば、児玉総参謀長は、乃木の自刃を防ごうとやってきた、という解釈は、ごく自然に思えます。

■4.「乃木を替えることはならん!」と言われた明治天皇

 児玉総参謀長が何としても乃木大将の自刃を止めようとやって来た、という解釈は、それまでの旅順攻囲戦の経緯を知れば、さらに説得力を増します。

 乃木大将は第三回の総攻撃の直前、11月22日に明治天皇から激励の勅語を賜っています。「成功ヲ望ムノ情甚(はなは)ダ切ナリ 爾等(なんじら)将卒夫(そ)レ 自愛努力セヨ」という、まさに切々たる御心の籠もったお言葉です。「攻撃開始前に勅語を賜るとは前代未聞」と桑原氏は記されています。

 第三軍将兵は勅語に深く感激し、乃木大将は「将卒一般 深ク聖旨ヲ奉体シ 誓ツテ速(すみや)カニ軍ノ任務ヲ遂行セムコトヲ期ス」と奉答しています。「任務ヲ遂行」という言葉に注意しましょう。成功するかどうかは分からない、ただ身命を賭して旅順要塞攻略という「任務」に向かうのみ、という覚悟が窺われます。

 乃木大将に随行したアメリカの従軍記者スタンレー・ウォッシュバンは「多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかった」と述べています。乃木大将配下の将兵たちは、同僚を次々と失いながらも、乃木の采配に決然と従って、死地に赴いたのです。

 大本営では、膨大な死傷者を出している乃木の更迭案も出しましたが、明治天皇は「乃木を替えることはならん!」と断乎許されませんでした。乃木だからこそ、将兵たちが決死の覚悟で戦うのであって、乃木以外の人間にこの死地で従うとは考えられなかったでしょう。そして、それでは旅順要塞は落とせないのです。

 また、乃木大将を替えたら、大将は生きていなかったでしょう。それでは乃木大将のためならと死んでいった多くの将兵たちも浮かばれません。そのような追い詰められた状況の中で、唯一の出口は乃木大将以下将兵たちの必死の奮戦で、活路を開いて貰うしかない。そういう切羽詰まったお気持ちで、明治天皇は異例の勅語を出されたものと拝察します。

■5.乃木の自刃を止めるために

 また、乃木大将は次のエピソードからも窺えるように、多くの部下を死なせてしまったことに深い責任を感じていました。

 旅順攻囲戦の後、将官たちが祝賀の宴を張っていた晩、途中で乃木大将の姿が見えなくなりました。大将の副官が宿舎まで探しにいくと、こんな光景を目にしました。

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 小舎の中の薄暗いランプの前に、両手で額を覆うて、独り腰かけて居られた。閣下の頬には涙が見えた。そして私を見るとこういわれた。今は喜んでいる時ではない、お互いにあんな大きな犠牲を払ったではないか。
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 こういう部下思いの将軍が、心を鬼にして、旅順要塞に立ち向かっていたのです。乃木大将の人柄から見れば、もし最後の203高地総攻撃が失敗したら、明治天皇、亡くなった将兵たち、それに日本国に対して申し訳ないと、文字通り腹を切って自決することは、十二分にありうることでした。

 児玉参謀総長からすれば、個人的な盟友を失うのみならず、旅順攻略の責任者が自決してしまったら、国際社会に対しても、日本の敗色濃厚である事を知らしめることになってしまうわけで、何としても止めなければならないことでした。

■6. 「乃木愚将論」で失われた人間性の真実

 旅順に出発する前に、児玉総参謀長は大山元帥から「第三軍の指揮権移譲」に関する書類を貰っていた、と秘書官の一人が語っており、司馬氏はこれを、乃木から指揮権を奪うため、と解釈しています。

 桑原氏は、そもそもこれが事実かどうかについて非常な疑問を持ちつつも、百歩譲って事実だとしたら、児玉総参謀長は乃木の自刃を止められなかった場合、自分が第三軍の指揮を執るつもりで、大山元帥からその承認を得たのではないか、と推察されています。

 もし乃木が亡くなったら、ルール上は部下の師団長級が代行することになりますが、それで乃木自刃の全軍及び国際的な衝撃を抑えられるはずもありません。

 その場合は、総参謀長の自分が替わってなんとかするしかない、と考え、そのために、大山元帥の一筆を事前に貰っていた。天才軍略家の児玉源太郎なら、そこまで用意周到に準備していたとしても、不思議はありません。

 結局、司馬氏は「乃木愚将論」という嘘を描くために、乃木の成功を「天才軍略家」児玉に帰するという嘘を重ねざるを得ませんでした。さらに、そのためには乃木の指揮権を奪う冷徹な「天才軍略家」に、児玉参謀長を貶めてしまったのです。

 国家と天皇と将兵のために自決まで覚悟した乃木大将、その乃木を殺してはならないと駆けつける児玉総参謀長、二人の深い絆をきちんと描けば、自ずから日本国史上の名場面として、国民の心に永く訴えるドラマになっていたはずです。司馬氏は「乃木愚将論」に執着することで、それを単なる「愚将」と「天才軍略家」の物語にしてしまったのです。

■7.世界から「尊敬と希にみる所の賞賛」を受けた「和の精神」

 もう一つ、司馬氏の偏向記述は、ロシア軍降伏後のステッセル司令官との会見にも現れています。そこでは会見後の両軍相まみえての写真撮影のことが触れられていないのです。日本軍とロシア軍の将官たちが入り交じり、肩を並べて、あたかも同盟軍の軍事演習の記念写真であるかのように見える、有名な一葉です。

 この写真が世界に報道され、乃木の武士道に基づく「和の精神」は、世界に感銘を与えました。乃木はこの6年後に欧州各国を歴訪しますが、ある欧州人は「彼がほとんど全欧州諸国より受けた王侯に対するがごとき尊敬と希にみる所の賞賛」と形容した歓迎を受けたのです。[JOG(783)]

 戦前の小学唱歌『水師営の会見』は、この情景を歌ったものです。

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昨日の敵は今日の友 語ることばうちとけて 我はたたえつ かの防備 かれはたたえつ 我が武勇
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 という一節などは、冒頭のEmiさんが「小さい時、祖母から乃木大将の話や歌を教えてもらいました」と言われた一部でしょう。こういう歌から、乃木大将の「和の精神」を教わることは、司馬氏の「乃木愚将論」を読むよりも、よほど深い人間教育になるはずです。

 戦前において、日本国民に「和の精神」を具体的な態度で示し、また世界から「尊敬と希にみる所の賞賛」を受けた「和の武人」を我々は忘れ去ってしまったのです。戦前の「軍国主義」を敵視する余りに、こういう歪んだ歴史を教えるという事は、なんと愚かな、罪深いことかと思わざるをえません。

(文責・伊勢雅臣)

■おたより

■祖母の思い出の中にいる乃木大将と、『坂の上の雲』の乃木認識の齟齬が解消できた(Mazziniさん)

毎号味わい深く拝読させていただいております。
今号は特に感動いたしました。というのも、私も祖母から乃木大将の話を繰り返し聞いていたからです。

昭和50年生まれの私は歴史少年で、明治生まれの祖母と歴史談義を楽しんでいました。祖母の幼友達のご父君が乃木大将の部下だったそうで、毎年命日にお呼ばれしてご馳走を頂いた云々。同じ話を繰り返し聞かされていました。「乃木大将」という言い方が印象的でした。

祖母は私が貸した『竜馬がゆく』を大変気に入って、また面白い本があれば教えてくれとよく言われました。司馬作品を中心のたくさんの歴史小説を貸しました。

しかし、これだけは読ませられないと考えていたのが『坂の上の雲』でした。実は司馬作品のなかで一番好きなのです。明治の日本人がひたむきに近代化の高みをめざす描写はいまでも感動します。

なのにこの美しい物語を祖母とは共有できない。乃木の“愚将”表現があるために…。

祖母の思い出の中にいる乃木大将と、坂の上の雲に教えられた私の乃木認識の齟齬は、祖母が亡くなってからもずっと心の負荷でありました。

後年さまざまな研究書を通じて乃木の再評価も知るようになりました。このたび伊勢先生のメルマガで似た境遇の方がいることを知り、また乃木大将の肯定的評価が妥当であろうことを知り、一気に憑き物が落ちた気がしています。

感謝の気持ちをお伝えしたく、メールさせていただく次第です。

■伊勢雅臣より

『坂の上の雲』は「明治の日本人がひたむきに近代化の高みをめざす描写」で大人気となりましたが、そのストーリーに直接関係のない「乃木愚将論」だけは余計でした。それよりも乃木を正確に描いて、武士道精神と近代化努力が見事に融合して、世界史的奇跡を成し遂げる原動力となった、と描いた方が、長い歴史に残る古典となったでしょう。

■「学校で習わなかった」ではなく、自分で勉強すべき(猫親父さん) 

 さて、今号の最後の文章「こういう歪んだ歴史を教えるという事は、なんと愚かな、罪深いことかと思わざるをえません。」の”教える”の主語を探してみました。

というのは(一視聴者さん)の「日本の教育はどうしてこういう大事なことを教えないのかと感じました。」の文脈と同様に「教えられれば理解したのに(教えてもらえなかった・・・)」という余韻を感じるからです。

私は「学校で教えるべき」「学校で教わらなかった」という論調には子供の頃から批判的で、受け身にならずに知りたかったら自分で勉強しなさいよ、と言って周囲から浮いたものです。

高齢者になって、その浮かざるを得ない正体がやっとわかりました(自分なりに)。

同調社会、空気が支配する我が国では、学校で教える歴史が「正史」であり、虚実関係なく国民はそれを信じていれば仲間外れにされずに済むという現象だということ。また正しい知識獲得が必ずしも良き社会構成員とならないことも。

「学校で習わなかった」を既成の事実として言い訳をする高学歴国家の線の細さが見えます。

器用ではあっても自分の頭で考える(作り出す)国民とは言われない理由が私達にはあるように感じます。
(決して自虐ではなく、正直な自己認識をベースに国際社会での役割に徹すべき、ということです。念の為。)

■伊勢雅臣より

 たしかに、学校の教えることをそのまま信じ込むのは、国家を信用している日本人の「うぶさ」でしょう。自分で学び、自分の頭で考える、という主体性が、フェイク・ニュースの時代には大事ですね。

■リンク■

・JOG(802) 乃木大将の「みあとしたひて」
 明治天皇に殉死した乃木大将は、その後も多くの人々の心の中に生き続けた。

・JOG(783) 水師営の会見 ~ 乃木将軍とステッセル将軍
 敵将に対する仁愛と礼節にあふれた武士道精神は世界に感銘を与えた。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

・桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』★★、PHP新書(Kindle版)、H28

・司馬遼太郎『坂の上の雲(五)』★★、文春文庫(Kindle版)、H11

■Live講座『皇室が紡いだ救国の歴史』へのおたより

■本当の歴史を知って自ら動き出した息子にびっくり(智子さん)

 息子も、伊勢先生の御講義での日露戦争で、天皇を中心とし、国民、陸軍、海軍、全て一致団結して、諦めずに、覚悟をし、立ち上がる事の大切さを、学ばせて頂けたようです。

 今までは、皇室は日本の象徴的な存在としてしか認識していなかったけれど、御講義での歴史背景を知ることにより、尊敬の念が息子に芽生えています。明治天皇はじめ、今回登場した『乃木大将』にも、息子は『すごい、かっこいい』と想って、今回、我が家の息子の本棚に『武士道』の本がやってきました。

 伊勢先生の御講義のおかげさまで、息子は自分から、興味を持って、伊勢先生の御著書を読み出したり、金子賢太郎氏が米国で講演中、敵将の死を悼む武士道精神も知ることができたので、自分で武士道の本を買って読みだしたり、しています。本当の歴史を知ると、こんなに自ら動いていくんだなぁ、って息子をみて感じました。びっくりです。

 今回の御講義での、高橋是清氏の『やる前からあきらめてはいかん』という言葉も息子にとても響いたようで、ボーイスカウトのキャンプにも、『ホントはあんましいきたくないけど、やる前からあきらめたりとか、いきたくないとか言うたあかんもんな、為になるとおもっていってくる』とか、言うたりして行きました。

■伊勢雅臣より

「教育は国家百年の計」、中学生の心にも訴えかける話をしたい、というのが、私の常々の願いですので、こういうお便りは本当に嬉しく思います。

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