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JOG(1168) 戦後日本に希望の光を与えてくれたジャヤワルダナ大統領

サン・フランシスコ講和会議で「日本は自由でなければならない」と説いたスリランカ代表。


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■1.鳴りやまない万雷の拍手と歓声

 ジャヤワルダナ氏は、鳴りやまない万雷の拍手と歓声のなか、演壇を降りた。・・・オペラハウスの窓という窓が振動した、…ロビーでは、大勢の群衆に取り囲まれて握手攻めとサイン攻めにあい、自分の席にもどるのに、護衛官が出るほどだったという。[野口、p107]

 1951年9月、日本と米英ソなど交戦国51カ国とのサン・フランシスコ講和会議で、セイロンのジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ代表が行った演説の様子を、現地紙「サン・フランシスコ・クロニクル」はこう伝えました。

 日本代表の吉田茂首相は、気高い演説に涙をあふれさせていました。そして、その日のうちにジャヤワルダナ氏を宿舎に訪問して、心からのお礼を述べました。

 セイロンは現在のスリランカで、この国名は「光り輝く島」という意味です。「光り輝く島」からやってきたジャヤワルダナ氏が、戦後の日本国民に希望の光を投げかけてくれました。氏の演説の内容をご紹介する前に、それに至るまでの氏とスリランカ国民の日本への思いを辿ってみましょう。

■2.「陛下が航海された船を見るために誇らしい思いで」

 ジャヤワルダナ氏は、昭和54(1979)年、大統領として来日し、9月11日、天皇皇后両陛下が主催された宮中晩餐会にて、こうスピーチしています。

 陛下が1920年代に皇太子としてスリランカを訪問された時、陛下が航海された船を見るために誇らしい思いで港を訪れたのを覚えております。[野口、p164]

 大正10(1921)年に裕仁皇太子が欧州訪問の途上、お召し艦がセイロンに立ち寄った時のことです。全長140mの堂々たる戦艦を日本人だけで自在に操って大洋を渡り、イギリスの対等の同盟国として公式訪問する、という事から、同じアジア人として「誇らしい思い」を懐いたのでしょう。

 スリランカは紀元前5世紀からの古い歴史を持つ国ですが、1505年にはポルトガル、1658年からはオランダ、1796年からはイギリスと、それぞれ150年ほども植民地支配を受けてきました。当時は、アジアのほとんどの地域が同様に欧米の植民地になる中で、日本だけが世界の強国として独立を保っていたのです。

 スリランカの国会事務総長を務めたサムソン・S・S・ウィジェシンハ氏は、こう語っています。

 日露戦争については、私は子供の頃に父から聞かされました。一九三〇年代の頃だったと思います。その戦争で初めて、アジアの国が西欧の国を打ち負かしたのでした。

 日露戦争当時、父はまだ若かったのですが、日本の勝利のニュースを聞いて非常に喜んだそうです。[桜の花、967]

 有色人種の国ながら大国ロシアの侵略を払いのけた日本は、アジア、アフリカ、さらにはトルコ、ポーランド、フィンランドなど、ロシア帝国に圧迫を受けていた国民に希望の光を与えました。ジャヤワルダナ少年の胸のうちにも、その希望が生まれたのでしょう。

■3.第2次大戦では「日本の勝利を期待した」

 先の大戦が始まると、日本の航空戦隊がイギリスの不沈艦と言われた「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を瞬く間に沈めてしまいました。イギリスは驚愕して、大量の戦闘機ハリケーンをスリランカに配備しました。当時のスリランカは、ビルマ経由で支援物資を蒋介石政権に送る中継基地にもなっていたのです。

 そこで日本海軍は「赤城」「蒼龍」「飛龍」の航空母艦3隻をインド洋に派遣して、島の南西のコロンボと北東のトリンコマリーを空襲しました。ハリケーンが100機ほども応戦しましたが、零戦の敵ではなく、8割ほどは撃墜されてしまいました。

 日本軍の攻撃は民間施設は避けて、軍事施設や軍艦だけを攻撃しました。そのお陰で、スリランカの人々は、日本が攻撃しているのは自分達ではなく、自分達を植民地支配しているイギリスなのだ、と考えました。前節に登場いただいたウィジェシンハ氏はこうも語っています。

 第二次世界大戦が始まった時に、スリランカ人の知識人などの中で日露戦争のことを学んでいた者達は、日本の勝利を期待したのでした。

 ジャヤワルダナ初代大統領は当時、理想主義の若手政治家でしたが、彼は更に進んで、日本に協力しようと日本領事と話をしたということで、警告を受けています。[桜の花、958]

■4.「もし、日本という存在がなかったら」

 マレーシア、シンガポールの戦闘で英軍に属していたインド兵が大量に投降しました。日本陸軍は彼らを指導して、独立運動家チャンドラ・ボースをリーダーとするインド国民軍を編成しましたが[d,e]、その中にスリランカ人の「ランカ部隊」もありました。その隊長をつとめたススリパーラ・デ・シルバ氏は、こう証言しています。[桜の花、1704]

 日本が緒戦においてイギリスなどを打ち負かす姿を見たために、今まで植民地だった国の人々は変わったのです。もう、支配される者などではなくなったのでした。

 それ故に、日本の敗戦後もインドは戦いを続けて独立を勝ち取り、スリランカでも後の初代首相となるセナナヤケ達が独立を求め続け、ついにはイギリスのグロスター公爵がやって来て、スリランカの独立を承認したのでした。

 もし、日本という存在がなかったら、私達は今でもイギリスに支配されていたでしょうし、東南アジアの国々も独立を果たしてはいなかったでしょう。[桜の花、1704]

 セナナヤケは首相としてジャヤワルダナ氏をサン・フランシスコ講和会議に送り出した人物です。「日本という存在がなかったら」という思いは、スリランカの人々が共有していたのでしょう。

■5.「アジアの隷従人民が日本に対して抱いてきた高い尊敬」

 こうして1947年8月15日にインドはイギリスから独立し、その半年後にスリランカも独立しました。その3年半後のサン・フランシスコ講和会議で、ジャヤワルダナ氏が歴史的な演説を行ったのです。氏は演説の中で、日本とアジア諸国との関係を次のように語っています。

  アジアの諸国民が、日本は自由でなければならないと、かたずをのんで見守っているのはなぜでしょうか。

 それは、われわれアジアの諸国と日本との間には、長い間続いてきた深い関係があるからであります。また、アジア諸国の中で、日本だけが独り強力にしてしかも自由で、そのためにわれわれは日本を、保護者であり、また友であるとして見上げていたからであり、そして、アジアの隷従人民が日本に対して抱いてきた高い尊敬のためであります。[野口、p99]

 さらにジャヤワルダナ氏は、聴衆に日本の「大東亜共栄圏」の理想を思い起こさせました。

 私は、アジアに対する共栄のスローガン(JOG注: 「大東亜共栄圏」)が隷従人民にとって魅力のあったこと、そして、ビルマ、インド及びインドネシアの指導者のあるものは、「大東亜共栄圏」実現のために日本と共に戦えば、自分たちの国々が解放されるかも知れないという希望を持って日本に同調した、あの大戦中の出来事(JOG注:「大東亜会議」[f])を思い出すことができます。[野口、p100]

■6.「憎しみはただ愛によってのみ消え去る」

 次いで、ジャヤワルダナ氏は、日本に対する損害賠償を放棄することを宣言します。

 しかし、われわれは、その権利を主張して賠償させようというつもりはありません。

 なぜなら、われわれは、アジアの限りなく多くの人々の生き方を気高いものにした、あの偉大な教導師の言葉、「憎しみは憎しみによって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るものである」という言葉を信ずるからであります。これは、仏教の創始者であるブッダの言葉であります。[野口、p101]

 この気高い言葉が満場の各国代表の心を打ったのでしょう。現地紙「サン・フランシスコ・エグザミナ」はこう論評しています。

 重んじられることなどはめったになさそうなセイロン島から来た褐色のハンサムな外交官が、今日忘れ去られようとしている国家間の、礼儀と節度と寛容の精神を声高らかに説いた。[野口、p108]

 次いで、ジャヤワルダナ氏はスリランカと日本は仏教を通じても結ばれていることを述べました。氏はサン・フランシスコに赴く途上、日本に立ち寄っており、世界的に有名な仏教学者・鈴木大拙に面会しています。氏は大拙に、日本の大乗仏教とスリランカの小乗仏教の違いを尋ねました。

 すると大拙は「なぜ、違いを重要視されるのか。逆に共通点について考えられてはいかがか」と諭しました。ジャヤワルダナ氏が講和会議で次のように述べているのは、まさに鈴木大拙のアドバイスに従ったものでしょう。

 仏教は、幾百年にもわたる共通の文化と遺産で、われわれを結びつけてきたのです。この共通の文化は現在も存在しているということを、私は、この会議に出庸する途中、先週、日本を訪問して見つけ出しました。

そして、日本の指導者、すなわち首相はもとより、一般民間人まで、さらには寺院の僧侶から、日本の人々は今もあの偉人な教導師の平和の教えの影響を受けており、しかもそれに従おうとしているという印象を得たのであります。われわれは、彼ら日本の人々に、その機会を与えなければなりません。[野口、p102]

■7.国際社会への導きの光

 こうして結ばれたサン・フランシスコ講和条約は翌昭和27(1952)年4月28日に発効し、独立した日本と最初に国交回復したのがスリランカでした。

 また、ジャヤワルダナ氏の提唱で、イギリス連邦諸国の中でアジア太平洋地域諸国の開発援助を行う国際機関としてコロンボ計画が1951年に発足していました。日本は1954年に加盟して、以後、共同経済活動を積極的に始めました。このコロンボ計画が、戦後の日本が最初に加盟した国際機関で、その加盟日である10月6日を我が国は「国際協力の日」と定めています。

 この両方の動きでジャヤワルダナ氏の強力な導きがあった事は間違いないでしょう。国交回復にしろ国際機関加盟にしろ、戦後日本の国際社会へのデビューは、まさに氏が先導してくれたのです。

 それに対する感謝の意からでしょう、日本からスリランカに対して空港・港湾・道路・医療・電気・農業・工業とあらゆる分野の無償援助や技術協力が政府と民間を挙げて行われました。

 その代表的なものが、スリ・ジャヤワルダナプラ総合病院です。ジャヤワルダナ大統領が、昭和54(1979)年に日本を訪問した時に、時の大平首相がサン・フランシスコ講和会議での声明への日本国民の感謝の気持ちを表すために、援助のプロジェクトを申し出ました。その際の思いをジャヤワルダナ大統領はこう述べています。

 私は、大会議場にしようか、大競技場がいいか、複合議事堂を建てていただこうかと、いろいろ考えていたそのときに、大プッダの言葉が心の中に夜明けの光のようにさしてきました。

(わたしに従いついて来ようとする僧は、きっと病める者のところにも行くであろう。)[野口、P177]

 そこで大統領は「病院をいただきたい」と申し出たのでした。その病院は日本側が心を込めて建築したのでしょう、それから30年以上経っても、ドアの蝶番(ちょうつがい)も水道の蛇口も一つとして壊れたものはない、との事です。現地で使う人々も、大切に使ってくれているのでしょう。

■8.光を与え続けてくれた人生

 ジャヤワルダナ氏の一人息子が護衛として、一緒に来日した時には、昭和天皇の方から氏を訪ねてこられたそうです。日本側から「天皇陛下がそのようなことをされることはまずない」と言われたました。昭和天皇もジャヤワルダナ氏の講和会議での発言を深く感謝していたのでしょう。

 この息子さんは父親から、日本の敗戦直後、昭和天皇がマッカーサーに戦争の責任を全てご自分が引き受けると言われたという話を聞かされて「父は昭和天皇を大変尊敬していた」と語っています。

 平成元(1989)年2月に行われた昭和天皇の大喪の礼には、ジャヤワルダナ氏は前大統領として参列しました。自ら参列したいと名乗り出たそうです。さらに、スリランカ政府は大喪の礼が執り行われる2月24日を国民服喪の日とし、政府、公的機関は半旗を掲げて、弔意を表しました。

 ジャヤワルダナ氏は1996(平成8)年、90歳で亡くなりました。氏の遺言で、角膜の一つはスリランカ人に、もう一つは日本人に提供されることになりました。日本に届けられた角膜は半分づつ、二人の女性の手術に使われ、両人とも光を取り戻しました。ちょうど日本とスリランカの国交回復50年の年でした。最後まで我が国に光を与え続けてくれた人生でした。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(598) 日本・スリランカ友好小史
 日本とスリランカの間には、互いに助け合った長い友好の歴史がある。
【リンク工事中】

b. JOG(206) サンフランシスコ講和条約
「和解と信頼の講和」に基づき、日本は戦後処理に誠実に取り組み、再び国際社会に迎えられた。
【リンク工事中】

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f. JOG(338) 大東亜会議 ~ 独立志士たちの宴
 昭和18年末の東京、独立を目指すアジア諸国のリーダー達が史上初めて一堂に会した。
【リンク工事中】

■参考■

(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

・桜の花出版編集部『アジアが今あるのは日本のお陰です―スリランカの人々が語る歴史に於ける日本の役割』(kindle版)★★★、桜の花出版、H21

・野口芳宣『敗戦後の日本を慈悲と勇気で支えた人ースリランカのジャヤワルダナ大統領』(kindle版)★★★、銀の鈴社、H30

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