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JOG(1331) 北条泰時 ~ 泰平の世を目指して

「泰平の世を」という源頼朝の願いを実現したのが、泰時だった。


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■1.泰時が築いた日本の骨格

 昨年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では鎌倉幕府2代執権・北条義時を中心に鎌倉幕府草創期が描かれ、その過程で源頼朝に加勢した多くの氏族が次々と内紛で滅ぼされていくという展開に息を呑みました。なにしろ13人には倒された長たちの人数でもあると言うのです。

 ドラマの終盤で、義時の子、泰時が登場しますが、飢饉で飢えた百姓たちの借金の証文を焼いて助けたり、また武士の法として『武家諸法度』を作ったりと、それまでの壮絶な内紛と流血の歴史とは、まるで違った人物として描かれています。

 泰時が第3代執権となったのが1224年、42歳の時で、それから1242年の60歳での死までの約20年間、世の中はそれまでとは、うって変わった泰平の代を迎えます。

 鎌倉時代は日本で最初の本格的武家政権が誕生した時代ですが、泰時がその基礎を固め、その上で第8代執権・北条時宗が中心となって、元寇を斥けました[JOG(207)]。日本が独立を保てたのも、当時の鎌倉幕府がしっかりしていたからです。

 また、泰時の作った武家諸法度によって法治が進みました。今日、法治主義が世界でも定着しているのは、西洋と日本という封建時代を経験した国家です。封建時代に土地の所有権を巡る法が整備され、国民の遵法精神が発達することによって、近代国家の法治主義が根を下ろします。

 さらに、武家政権が安定することによって「皇室の権威の下での幕府の権力」という二階建て構造が確立しました。権力を握るものは常に権力闘争に曝されますが、二階の権威は闘争を避けて、国家全体の統合を支えます。権力者が交代しても、国全体の一体性は保たれるという日本の叡知が確立したのです。

 こうして見ると、今日の我々は、実に多くを泰時に負っていることが分かります。今回は、その泰時の生き様を辿っていきましょう。

■2.「農民の喜びを見て喜ぶ泰時と、農民の悲しみを忘れて歓楽に耽ける頼家」

 泰時は若い頃から「道理」を重んじていました。1201年、19歳の時のことです。大風が吹き、鶴岡八幡宮も破損し、民の家々も被害が出ていました。そんな中でも、2代将軍・頼家は蹴鞠(けまり)に凝っていて、京都から蹴鞠の名手を呼んで、毎日練習にふけり、政務をなおざりにしていました。たまりかねた泰時は、頼家の近侍にこう伝えます。 

蹴鞠は幽玄の芸能、大いに結構。さりとて大風が吹き餞饉の恐れある時、わざわざ都から芸人をお招きになるのはどうかと思う。・・・先君頼朝公も、天変出現の際は、浜への御遊歩を止められ、世上無為(伊勢注:天下無事)の御祈祷を行われた。それに比べて頼家公の御所業は合点がゆかぬ。貴殿から諌言されては如何(いかん)。[上横手、p12]

 将軍は天下泰平を目指して政治を行うべき、という頼朝公の示した「道理」に、2代将軍・頼家も従うべき、という苦言です。

 頼家はこれを聞き、小賢しい建言と機嫌を悪くしました。それである人が、泰時に所領の伊豆に帰って謹慎しているように勧めましたが、泰時は、「将軍家のお咎めを受けるのなら、鎌倉にいようが伊豆にいようが同じこと。ただ貴殿に忠告される迄もなく、急用あ って明朝伊豆の北条に下向の用意をしている」と答えました。

 伊豆での急用とは、不作で窮している百姓たちを救うことでした。出挙米(すいこまい、領主からの貸し付け米)も返済できず、逃亡の準備をしているものさえいました。泰時は彼らを集めて証文を焼き、豊年になっても返す必要はないと言い渡しました。そしてかねて用意していた酒や米を振る舞ったのです。百姓たちは手を合わせて、北条氏の繁栄を祈りました。

 上横手雅敬・京都大学教授は評伝『北条泰時』の中でこう評しています。

農民の喜びを見て喜ぶ泰時と、農民の悲しみを忘れて歓楽に耽ける頼家の姿は、鮮かなコントラストをなして、源氏の末路の近さと、北条氏興隆の必然性とを考えさせる。[上横手、p13]

■3.「撫民」(民への愛情)が政治の基本

 執権になってからの泰時は、「撫民」(民への愛情)を政治の基本にしていました。それが端的に表れたのは、1230年から続いた全国的飢饉への対応でしょう。

 この年の夏、武蔵と美濃で雪が降りました。秋には大雨で農作物がやられ、一挙に冬が来たようでした。大風雨で多くの人家が破損しました。逆に冬になると、暖冬異変で京都では桜が咲いたり、小鳥や蝉が鳴く様でした。不作の影響で、多くの農民が年貢米を払えず、逃亡するものまで出ました。翌年からは餓死者が急増します。

 若い頃から、所領での飢饉を経験していた泰時は、素早く手を打ちました。領地である伊豆、駿河などでは富裕者に米を出させ、出挙米の返済できないものには、自分が代わりに返済してやる方法をとりました。

 全国に対しては、今までの出挙の利子を半額に減らすように命じました。登場したばかりの鎌倉幕府は、こうして全国的な飢饉に積極的に立ち向かったことにより、日本全国を統治する政権として認められていったようです。

 一方で、泰時は自らの生活は極端に切り詰め、畳や服装の新調は禁止、夜は燈火を用いず、昼食は抜き、酒宴や遊覧も取りやめ、御家人たちにも華美な服装を禁じました。食事の粗末さでは、「健康なものでも、生きていけない」と言われたほどです。

 泰時は、民への愛情を生まれながらに持ち、そのままに最高権力者の地位についた人物でした。

■4.土地争いを防ぐ『御成敗式目』

 しかし、民の安寧を実現するには、安定した法治社会を築くことが必要不可欠でした。当時は奈良時代以来の公地公民制が崩れ、武士があちこちの領地を所有するようになっていました。土地の所有権を明確にし、土地争いを防がなければなりません。

 頼朝は、全国の国ごとに守護を置いて軍事や警察を担当させ、荘園や公領には地頭を配置して、年貢の取り立てや土地の管理をさせました。これによって、律令制下の国司の仕事の重要部分を武士が執り行って、治安維持と課税、領地管理を行う体制ができました。

 しかし、守護や地頭が道理に則った行政をしなければ、争いごとが絶えません。所領争いの訴えがもたらされても、その判断の基準がバラバラであったり、力の強いもの、賄賂を使うものが訴訟に勝つようでは、安定した社会にはなりません。

 その基準を泰時は、それまでの武士の慣習法を体系化して作りました。それが『御成敗式目』です。それは武家による土地所有の法的根拠を確立し、裁判での基準を明確化して、頼朝が目指した幕府の武家統治を完成させるものでした。

 御成敗式目は近代法にも通ずる合理的な基礎を持っていました。たとえば、所領の支配権(知行権)はその土地を得た由緒(自ら開発した、購入した、勲功で与えられた)によりますが、どのような由緒であれ、20年所領を支配していれば、その支配権が認められました。

 現在の時効や既得権益の概念に通ずるもので、これにより20年以上前の古い、多くの場合、不確かな由緒を確認する曖昧さ、煩雑さを避けることができます。

■5.泰時が定着させた法の精神

 当時の所領争いの一例を見てみましょう。九州のある兄弟が父の遺領を争いました。貧乏な父がかつて所領を売ってしまいましたが、兄はこれを買戻して父に知行させました。ところが父は所領をすっかり弟に譲ってしまったのです。そこで兄弟間の訴訟となったのです。

 兄は嫡子で幕府の御家人でした。弟は父の譲状をもっています。共に一応の道理があるので泰時は裁決に困って明法家(法律の専門家)の意見を求めました。明法家は親の譲り状をもとに「弟の方に分がある」と判断しました。

 泰時はその判断に従って弟の知行を認めたものの、兄が不憫でなりません。それで自分の家に置いて衣食を与え、欠所(領主がいなくなった土地)でもあれば与えようと思っていました。兄はある女性と結婚し、貧しいながらも愛情に満ちた生活を送っていました。

 そのうちに兄の本国に父の遺領よりも大きな欠所があったので、泰時はこれを与えました。兄は「この二、三年、妻にわびしい目ばかりさせておりますので、拝領地に連れていって、食事も存分に食べさせ、いたわってやりたいと思います」と言うので、泰時は感心して、旅行のための馬や鞍まで与えてやりました。

 泰時が兄が不憫だからというだけで、その言い分を認めてしまっては、法治になりません。そこで、法に則って弟の知行を認め、ただし、兄の方は自分の行政権限の範囲内で領地を与える。このように、法は法として適用しながら、その足らざるところは別の形で社会正義を追求する。こういうやり方によって、法治の精神が根を下ろしていくのです。

■6.「君側の奸を討て」

 思いやり豊かな泰時の生涯で、最大の波乱がでした。三代将軍実朝の嗣子なき後、後鳥羽上皇が倒幕を目指して、諸国に義時追討の命令を発したことで起こりました。

 泰時は幕府軍を率いて上洛するよう義時から命ぜられましたが、朝廷に向かって弓を引くという事態に、迷いに迷いました。出陣に際し、鶴ヶ岡八幡に祈念しました。「このたびの上洛が道理に叶わぬものなれば、わが命を召し給え。天下の助となり、人民を安んじ、仏神を興し奉るものなれば、わが身を憐み、加護を垂れ給え」と。この祈りからも、この戦いでの迷いが窺えます。

 さらに、出陣直後に、急に思い立って、わざわざ鎌倉に戻り、義時に尋ねました。

「父上、この戦いで院御自身が軍の先頭に立ち、御出陣あそばされればいかがいたしましよう」

 義時は、以下のように返答したと『増鏡』にある。

「御自身出陣の折は、院の御輿に弓を引くことはならぬ。かぶとを脱ぎ、弓の弦を切って身を任せ奉れ。その代わり、院が出陣しないで都にいて、諸将に軍兵を預けた際はあくまで徹底して戦え」[大湊、p91]

 出陣に先立って、頼朝の妻・政子が、朝廷に弓引くことを迷う武将たちに、「御鳥羽院と戦うのではなくて、御鳥羽院に誤った勅令を出させた逆臣どもを退治するのだ」と訴えました。義時の答えは、この論法に合致しています。

「君側の奸を討て」とは日本の歴史で何度も使われたスローガンですが、皇室の権威を傷つけずに、権力闘争を行うために使われました。これによって、一階で権力闘争が起こっても、二階の皇室の権威は安泰で、その下での国家の一体性は護られました。

 現実には後鳥羽上皇が北条義時追討を命じた主導者であり、また幕府も後鳥羽上皇を隠岐の島に配流することで、その責任を追及したのですが、皇統は後鳥羽上皇の第一皇子ながら、承久の変には関与していなかった土御門上皇の皇子が後嵯峨天皇として即位するなど、皇位継承は前例にしたがって行われました。

 承久の変は東日本中心に勢力を広げていた鎌倉幕府と、西日本を中心に支配を保っていた朝廷との間で起こり、幕府が全国支配を固めた争いでした。すなわちこれを機に、「天皇の権威の下での幕府の権力」という権威と権力の分離が全国規模で完成したのです。

■7.「泰平の世を」という頼朝の願いを実現した泰時

 JOG(903)「頼朝が生んだ幕府体制の叡知」では、律令制度が崩れ、朝廷の行政と軍事の力が弱まってくると、地方の様々な土地所有者が自衛のために武装し相争う混乱した社会が現出し、その中で頼朝が東日本を中心に、朝廷の権威のもとで社会の秩序回復を目指す改革を行った事を述べました。

 そもそも頼朝が就任した征夷大将軍とは、天皇に任命されて東日本全体に行政と軍事の指揮権を与えらたもので、頼朝の目的と完全に合致した役割でした。さらに、国ごとの治安と軍事を統括する守護と、年貢徴収や警察官の役割を担う地頭を置く権能を、頼朝は朝廷の承認を得て持ちました。この守護と地頭は、形式上は従来の朝廷の役割を移したものでした。

 すなわち、頼朝は朝廷の権威を生かしたまま、そのもとで幕府の権力機構を築き上げようとしたのです。これは藤原氏が平安時代に構築した「天皇の権威と藤原氏の権力」の二階建て構造を、新しい社会の変化に合わせて、「天皇の権威と幕府の権力」という新しい二階建て構造に立て替えたのです。しかし、頼朝はその道の半ばで倒れてしまい、その志を完成させたのが泰時でした。

 泰時は、もともと元服の際には頼時という名を与えられていました。頼朝が烏帽子親(えぼしおや)になって、自分の名の一字をとって与えたのです。それを泰時に改名しています。改名の時期も理由も分かりませんが、[大湊]では政子の夢に頼朝が出てきて、「泰時」という新たな名を与えたとしています。

 この説の根拠は不明ですが、泰時は頼朝を終生、大変に尊敬していましたので、頼朝から与えられた名を自分の一存で変えたとは思えません。政子の夢に頼朝が出てきて、「泰平の世」を作って欲しいと新たに「泰時」という名を与えた、ということなら、納得できます。

 頼朝は新しい時代に合った統治体制を築き始めましたが、その過程で子や孫はみな、内紛、暗殺など不幸な死に方をして家系は断絶してしまいます。「鎌倉殿の13人」も次々と内部権力闘争で倒れていきます。国全体も土地争いが頻発し、飢饉で多くの餓死者が出ていました。

 頼朝が政子の夢の中にでてきて、という逸話の真偽は分かりませんが、頼朝の「泰平の世を」という願いを実現したのが泰時だったことは史実です。

(文責:伊勢雅臣)

■おたより■

■北条泰時の「人物像」や想いに触れるからこそ、「歴史的事実」に血が通い、私たちの心で感じられる「物語」になる(Naokiさん)

 鎌倉殿の13人は私も楽しく視聴しておりました。

 私自身が鎌倉生まれ・育ちなので、源頼朝、鶴岡八幡宮、源氏山など身近に接しており、とても懐かしく感じながらドラマを堪能させてもらっていました。

「北条泰時が御成敗式目をつくった」という事実は知っていても、その背景や願いまで知ることは簡単ではありません。歴史の教科書が、そのような事実の記述に終始しているからです。

 伊勢様の文章を読ませていただき、北条泰時の「人物像」や想いに触れるからこそ、「歴史的事実」に血が通い、私たちの心で感じられる「物語」になるのだと改めて教えていただきました。

 今の日本と鎌倉時代のつながりについて実感する機会はほとんどありません。しかし、このような物語を知ると、歴史的建造物や寺社に参拝するときの心持ちが違ってきます。教科書にある知識だけでなく、背景や人物像・想いにふれられる経験をこれからも増やしていきたいと思いました。

■伊勢雅臣

「北条泰時が御成敗式目をつくった」という知識だけでは、意味がないでしょう。

>北条泰時の「人物像」や想いに触れるからこそ、「歴史的事実」に血が通い、私たちの心で感じられる「物語」になる

 これが歴史教育の真の意味だと考えます。

■リンク■

■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

・大湊文夫『北条泰時 頼朝の理想を実現した男』★★、郁朋社、H30

・上横手雅敬『北条泰時』★★★、吉川弘文館、S63


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