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JOG(207) 元寇 ~鎌倉武士たちの「一所懸命」

 蒙古の大軍から国土を守ったのは、子々孫々のためには命を惜しまない鎌倉武士たちだった。


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■1.フビライからの手紙■

 1268年正月、蒙古帝国第5代皇帝フビライからの手紙が朝鮮半島の高麗からの使者によって、日本にもたらされた。

 ねがわくば、今より以後、通商して好(よしみ)をむすび、もって相親睦しようではないか。なお、聖人は四海を家となすものであるが、日本が蒙古に通好しないならば、それは一家のうちではないということであり、やむをえず兵を用いることもありうる。それは朕の好むところではない。日本の王よ、そこのところをよく考えて欲しい。

 高麗はこの30年ほど前の1259年、30年近くの戦いに敗北して、蒙古の属国となっていた。半島は蒙古軍の蹂躙にまかせられ、抵抗する高麗民衆は「骸骨野に満つ」という辛酸をなめた。高麗の次は日本である。

 南宋も、中国大陸南部に追い込まれていた。当時、日本と南宋の貿易が盛んであったが、日本との「海の道」を分断しておく必要があるとフビライは考えていた。

■2.仁なき交わりは■

 当時の日本では、西園寺中納言実兼などが南宋との貿易で莫大な利益を上げており、形式だけなら属国となっても、巧みに交易して利益を上げればよい、という意見を財力を使って公家の間に広めようとしていた。

 フビライの使いがあった2ヶ月後に18歳の北条家の当主、時宗が鎌倉幕府の最高責任者である執権の地位につく。来るべき蒙古襲来に備えた本格政権である。

 時宗はフビライの国書を見ると、「これは無礼な」と眉を逆立てた。

大蒙古国皇帝奉書
    日本国王

 と、自国を上段に据え、下に小さく「日本」と書いてあったからだ。「適当にあしらっては」との声にこう答えた。

 礼なければ仁(おもいやり)なく、仁なき交わりは、禽獣(動物)の交わりにもおよびません。

 時宗は京から蘭渓道隆(らんけい どうりゅう)を呼んで意見を聞いた。蘭渓は南宋から逃れてきた多くの僧の一人である。

 あっぱれのご覚悟。わが祖国の宋は、いまや北方の蛮族のため、国土の大半を侵略されました。それというのも、宋国の為政者が、蒙古の強大な兵力を恐れ、常に当面を糊塗する和平策に終始したため、その侮りを受け、結局国土を守りきれなかったためでございます。

■3.蒙古襲来■

 蒙古は国号を元と改め、度重なる使いを日本に送ったが、時宗が黙殺を続けると、ついに文永11(1274)年10月、蒙古2万、高麗8千の軍勢が900艘の大船で、対馬、壱岐を襲った。

 高麗は長年の蒙古との戦いに国土を荒らされていた上に、大船の建造で、山という山は丸裸となり、さらに大軍の糧食の徴発も行われた。遠征軍は船に鋤や鍬などの農具も積んでおり、日本占領後には、屯田兵として定住するつもりであった。

 対馬では守護代がわずか80騎の手勢で、上陸した千人近い元軍に果敢に挑んだが、1、2時間で全滅した。元の兵は島民の多くを殺し、家を焼いた。壱岐では100騎余りが桶詰城に立て籠もって、まる一日ほど善戦したが、ついに全滅した。住民の男は見つけ次第に殺され、女は捕らわれて掌に穴をあけられ、それに綱を通して、船べりに吊り下げられたという。

■4.「一所懸命」の武士■

 元軍は10月20日、博多湾岸に上陸、1万に満たないと言われる九州一円の武士たちが迎え撃った。その中に兄弟、郎党5,6人とともに肥後(熊本)から馳せ参じたご家人・竹崎五郎兵衛季長(すえなが)がいた。季長は「一所の荒郷(土地の痩せた所)」武士である。この戦いで目立った働きをすれば、たとえ戦死しても恩賞として、妻子、子孫に所領が貰える。「一所」に命を駆ける「一所懸命」の武士であった。

 季長は味方からもよく目立つように兜の後に赤い布を着け、本隊を離れて、わずか5騎で移動中の元軍の大軍に斬り込んだ。「先駆けの功名」は、敵を怯ませ、味方の戦意を鼓舞するものとして恩賞の対象になる。

 季長一党は馬上から太刀や薙刀を振り回し、当たるを幸い敵を次々となぎ倒した。そのうち元軍も季長等がわずか5人と気がつくと、取り囲んで矢を射かけてきた。季長は腕や肩に矢を浴び、馬が竿立ちになって転げ落ちた。元の武将が青竜刀で斬りつけるのを、かろうじて太刀で受け止めた。あわや、これまで、と思われた時、後続する味方の一隊が「それ、者ども、味方討たすな」と駆けつけて危うい所で救い出された。

■5.元軍退却■

 元軍は、次々と上陸して、その数は増すばかりである。太鼓やドラの合図で、騎馬武者単位で戦う武士たちに雨あられと毒矢を浴びせかける。武者たちも次第に押されて、夕刻には博多を捨てて、4里先の太宰府の水城まで後退した。

 夕刻に雨が降り出し、元軍は夜には船に引き揚げた。そして翌朝、博多湾を埋め尽くした元の軍船は、消え去っていた。後世、神風で元軍が全滅したと言われているが、新暦では11月26日に当たり、現在ではその可能性は低いとされている。高麗側の記録では、総司令官の忻都(きんと)は「疲れた兵をもって日ごとにふえる敵軍と戦おうとするのは、正しい作戦とはいえない」と言って、退却を決めたとしている。

 緒戦は優勢だったとは言え、日本の武士たちの果敢な戦意を見て、このまま戦いを続けても、矢種や糧食が尽きれば敗北は必死と見たのであろう。

■6.人間の道■

 翌・建治元(1275)年4月、フビライの使者がやってきた。国書を持参し、時宗に会うことを要求した。「日本国としては、文永の役では意地を見せた。このたびはフビライ王と和をむすぶべき」との声が幕府の中にもあったが、時宗は言った。

 対馬、壱岐の無辜の民を多く殺害したその暴を詫びぬとあれば、それは人間の道ではござらぬ。

 時宗は元の使者に三度も帰国を命じ、それでも従わなかったので斬首に処した。さらに元軍再襲来に備えて、博多の海沿いに石築地を築くように命じた。同時に元征伐のための遠征準備にかかるよう、西国の守護に指示した。

 一方、季長のせっかくの「先駆けの功名」は、幕府への報告からどういうわけか漏れており、恩賞に与らなかった。怒った季長ははるばる熊本から鎌倉まで上って、幕府に直訴した。時宗は、このような「一所懸命の武士」こそ、再び元が来襲した時に頼りになるとして、再度の調べを命じた。その結果、季長は第二次の恩賞に含められ、肥後国の海東郷を拝領した。さらに馬一頭と鞍を特別に与えられた。訴えのための数ヶ月の旅路を憐れんだ時宗の思いやりだと、季長は察した。

■7.元軍、再襲来■

 元は1279年に南宋を滅ぼすと、80年には日本遠征のための征日本行省を設け、81(弘安4)年、第2次遠征軍が出発した。高麗を出発した東路軍は、蒙古、高麗、漢人の連合軍で兵数4万、船900艘。南中国から出発した江南軍は、宋人中心に10万、3500艘。

 東路軍は5月21日に対馬、26日に壱岐を襲い、6月6日に博多湾に姿を現した。しかし、元軍は博多湾沿岸に延々20キロも築かれた石築地を警戒して、すぐには上陸してこない。

 石築地は断面で高さ2m余、基底部の幅3m弱、海側を切り立たせて敵の上陸を阻む一方、陸側はゆるやかなスロープとして騎馬のまま駆け上れるようになっていた。

 石築地の内側で待ちかまえる日本勢の中にはもちろん季長がいた。季長が鎌倉にまで行って直訴した話は有名になっていて、「源平の昔より、坂東武者が双なき勲をたてるのは、子々孫々のための所領安堵を願ってこそ。命をかけて戦った者ならば、恩賞を願って当然。それこそが頼朝公以来の坂東武者の生き様よ」と周囲の武士たちは季長に畏敬の目を向けるのだった。

■8.後退続ける元軍■

 停泊する元軍の大船に、肥前唐津の草野次郎経永の一党十余名が2隻の小舟で夜襲をかけた。鈎のついた縄はしごを船べりに投げ上げてひっかけ、一気によじ登る。甲板で見張りの兵が大声をあげた時には、経永らは太刀をふるって元兵をなぎ倒していた。火のついた干し草の束を投げつけると、甲板のあちこちに火の手があがった。元兵があわてて火を消している間に、経永らはゆうゆうと敵兵の首20余りをかかえて、小舟で戻っていった。

 肥後天草の大矢野種保兄弟らも、同様の夜襲をかけて、これまた20余の首を持ち帰った。次の日には、伊予の水軍河野六郎道有一党が白昼堂々と元船に乗り込み、元兵をなぎ倒し、敵の一将を生け捕りにして帰ってきた。

 相次ぐ奇襲に手こずり、また博多の守りの堅さを知った元軍は、石築地のない志賀島への上陸を図った。ここから潮が引けば陸となる長い砂州、「海の中道」から香椎、箱崎をへて博多に迫ろうとした。そうはさせじと、白砂の美しい海の中道で両軍の主力が激突した。数日後、元軍は志賀島からの上陸を諦めて、博多湾外に去っていった。

 元軍が高麗を出発してから1ヶ月半、夏の盛りに、飲み水にも青野菜にも欠乏をきたして、病人が出始めた。東路軍は壱岐に引き揚げた。意気上がる日本勢は、船を出して攻め込んだ。元軍の兵力は4、5倍だが、日本の武士たちが斬り込むと、敵陣はたちまち大崩になる。悲鳴を上げて逃げ、逃げ遅れた兵は武器を投げ捨て、両手を合わせて命乞いをする。

 東路軍の主力は高麗兵で、「九州を占領すれば、豊かな田畑が与えられる」などの甘言で集められた者たちである。守勢になると、命あっての物種と逃げ出す。自分の命を賭けても、子々孫々のために土地を守ろう、あわよくば恩賞の所領を得ようとする鎌倉武士たちの「一所懸命」の敵ではなかった。

■9.神風吹く■

 東路軍はさらに西に退き、7月上旬に平戸島にて江南軍10万と落ち合った。元軍は作戦の練り直しのためか、20日以上もそこから動かなかった。7月27日、東路・江南両軍4千数百艘は平戸から東へ約20キロの鷹島に移った。博多まではさらに東へ80キロである。

 明後29日出航と決めていた所に、このあたり一帯を根拠地にする松浦党を中心とする日本勢に斬り込みをかけられ、大混乱に陥って、29日出航が不可能になった。死体の始末や、船舶の修理に追われている元軍にあくる30日夜から大暴風雨が襲った。翌朝、大半の船は海に呑まれ、また磯に打ち上げられた。

 元軍の幹部諸将は、破船の修理をして早々に引き揚げてしまった。置き去りにされた3、4万の元兵に、数百艘の船で日本軍が襲いかかった。逃げ場を失った元兵は死に物狂いで抵抗したが、日本軍に掃討された。数千人が捕虜になったが、宋人は長い日宋貿易のよしみで命を助けられた。季長はこの残敵掃討戦でも功名を立て、一層の勇名を馳せた。

 こうして元の第二次遠征も失敗に終わった。最終的には台風が元軍の息の根を止めたわけだが、それも日本軍の「一所懸命」の守りにより、2ヶ月近くも元軍を海上にとどめたからである。神風を呼んだのは、日本軍の奮戦であった。

■10.フビライの40年の執念空しく■

 フビライは、日本の報復攻撃を恐れて、高麗の防衛を強化する一方、なおも3度目の日本遠征を決意し、高麗はみたび大量の軍船、糧食、兵員の準備を命ぜられた。

 しかし日本遠征により財政が疲弊し、大インフレに襲われ、さらにベトナムや江南での反乱があいつぎ、元帝国は第三次遠征の余力をなくしていく。フビライは帝国の面子にかけても日本に朝貢させようと、度々使いを送ったが、日本が応えるはずもない。

 フビライの日本に対する報復と侵略の念はますます燃え盛り、弘安の役の12年後、1293年日本遠征の最後の命令を下すが、一般民衆の生活苦はどん底に達し、一高官が命を賭けて反対したために中止となった。フビライはその年明けに80歳で病没、日本遠征を志してから40年の執念はここに空しく潰えた。

 元を後ろ盾にして自らの権力の安定を図った高麗王は、フビライの野心のために日本遠征に協力し、民は塗炭の苦しみを舐めた。和平策に走った宋はフビライに侮られ、国を滅ぼされた後、日本遠征に加担させられた。わが国が独立を維持できたのは、属国となっても交易して儲ければよい、という声を抑えて、「仁なき交わり」を断固排した時宗の決断と、子々孫々のために命を賭けて戦った鎌倉武士たちの「一所懸命」のお陰である。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

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■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 浜野卓也、「北条時宗」★★★、PHP文庫、H7

2. 永井路子他、「時宗の決断」★、中公文庫、H12

3. 谷口研語、「北条時宗と蒙古襲来」★、成美文庫、H12

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■「食生活から日本が崩壊する」 

Yonezawaさんより
1.家族そろって食事をしなくなった。共稼ぎが増えて子供に食事をつくるお母さんがいなくなりつつある。=家庭の崩壊

2.食材が輸入品だらけになりつつある。豊かな食品に恵まれた毎日ですが、このままゆけば日本の農業は立ち行かなくなるでしょう。突然、輸入がストップしたらどうなるか?戦後の食糧難を体験したわたくしには怖い事だらけです。

3.食生活の安全性が心配です。自分の食べるものは自分たちがつくる事が基本です。そこには文化が生まれ、人間の会話が生まれ、豊かな人間関係が生まれ、犯罪も減少し健康になり医療費の心配もなくなります。家庭生活も経済的に豊かにもなるでしょう。

4.今の様にコンビにでなんでも買える便利さに慣れた私たちは物事のすべてを人まかせになっています。

 これは今の政治の状況がよく反映しています。政治家が悪いのではありません。その様な政治家を選んだ私たちが駄目なのです。もう一度、物事の原点に立ち返って身近な食生活から改善してゆこうではありませんか。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 鎌倉武士たちの「一所懸命」も、家族や子孫への愛情ですね。日本の国柄のもっとも身近な部分です。

© 平成13年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.

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