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JOG(1024) クオン・デと松下光廣 ~ ベトナム独立に賭けた志と友情

 ベトナムの王族と、現地で一大商社を立ち上げた日本人が、ベトナム独立のために「血盟関係」を誓った。

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■1.クオン・デと松下光廣の出会い

 ベトナムの王族クオン・デと、15歳にして裸一貫でベトナムに渡り、数千人規模の商社「大南公司」を立ち上げた松下光廣が出会ったのは、1928(昭和3)年、台北においてであった。

 クオン・デは「とつとつとした日本語」を交えて、ベトナム独立にかける思いと、1906(明治39)年に日本に渡ってから12年にわたる亡命生活の身の上を語った。松下もベトナムに渡って以来、二十数年間のベトナム人への思いをべトナム語で語った。感動した二人はお互いの手を握り締め「血盟関係」を誓つた。

 松下を信頼したクオン・デはベトナム各地に潜伏して独立運動を展開している同志たちとの連絡役を依頼する。以後、クオン・デと独立運動家たちとの連絡はすべて松下を通じて行われるようになった。クオン・デはさらに、同志たちとの連絡書簡の中で常に「現地においては、余の代行として松下氏の指導を仰ぐように」と書き加えた。

 弊誌1001号「ベトナム独立運動を扶けた日本人」[a]で紹介したファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎や大隈重信、犬養毅らの友情とともに、クオン・デと松下光廣の「血盟関係」も、日越友好史を飾る美しくも悲しい一幕である。

■2.海外雄飛の夢

 熊本県天草市で生まれた光廣がベトナム行きを決意したのは、明治44(1911)年のことだった。姉の嫁ぎ先の義姉で、ベトナムで雑貨店を経営している橋口セキが商用で帰国し、光廣に南洋の話をいろいろ聞かせてくれた時だった。

「おりゃあ(俺は)、セキ姉さんについて、南洋さん行こごたる。南洋で、偉うなって帰ってくるばい」と、光廣は海外雄飛の夢を膨らませた。心配した両親は大反対したが、光廣は毎日のように泣き叫び、ハンストにまで入って訴えた。頭を抱えた両親は、ついに「しっかり者のおセキさんと一緒だし」としぶしぶ了承した。

 セキに伴われてベトナム北部第二の都市ナムディンに渡った光廣は、セキの家に居候し、洗濯屋のアルバイトをしながら、フランス語とベトナム語を日に日に使いこなせるようになっていった。

 セキの雑貨屋には、若いベトナム青年たちが光廣を訪ねてやってくるようになった。日本のことを学びたい、とか、ベトナム語の先生役を買って出る若者もいた。その中には祖国独立を志す革命家もいて、深夜密かに訪ねてきて光廣にベトナム人の抵抗の歴史を語った。日露戦争に勝利して白人国家を打ち破った日本は、独立を夢見る青年たちに希望の灯を灯していたのである。

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 その時から私は、訪ねてきた志士たちの独立と自由への切々たる悲願に魂の底で共鳴し、古くは中国の弾圧に苦しみ、さらにヨーロツパ植民地主義者の圧政に呻吟苦悩しているべトナム民衆に同情の念を強くするとともに、その桎梏(しっこく)を打破すべく、命をかけて抗争している革命家たちの言動に深く感動したものです。[1,p66]
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■3.「昼は商社、夜は革命家の秘密基地」

 1922(大正11)年5月、ベトナムに渡って10年目にして、光廣は念願の貿易商社をハノイの中心街に設立した。サイゴンの三井物産出張所に4年間働いて貿易実務を学び、また小さなホテルを経営して資金を貯めたのだった。

 しかし、実業家として成功することが光廣の目的ではなくなっていた。「同じアジア人として、ベトナム人の解放に役立ちたい」と決意していた。社名は「大南(ダイナム)公司」とした。ベトナム(越南)とは1802年にグエン朝がベトナム全土を統一した際に、清朝に服属して与えられた国名で、シナ南方民族の総称「越」のさらに南という意味であろう。

 グエン朝初代の王はこれが気に入らず、清朝に対する公式文書では「越南」を使ったが、それ以外の場合は「大南(ダイナム)」を使った。「南の大きな国」という意味で、ベトナム人の誇りが籠っており、フランスからの独立を目指す志士たちにとっては象徴的な国名だった。「大南公司」といえば、その志はすぐに伝わった。

 また、光廣は従来の日本人商店がフランス人ばかりを客にして、金を持たないベトナム人を無視していたのに批判的で、ベトナム人を相手に日常商品を売る店舗を展開した。当時の多くのベトナム人が裸足で生活していたが、気軽に「裸足で入れる店」で、実用的な大衆向きの品物を売った。

 やがて、大南公司はピーク時には9千人もの社員を抱える商社に成長する。「大南公司はベトナム人のための企業であり、その利益はベトナムの独立運動のために使うのだ」という光廣の決意は変わらず、「大南公司は昼は商社、夜は革命家の秘密基地」とまで言われるようになった。

■4.「父祖の社稷を守るためなら家も妻子も捨てます」

 クオン・デは、グエン朝を開いた初代皇帝の長男カイン王子の直系4代目に当たり、正統な王位継承権を持つ人物だった。しかし、長男カイン王子が夭折し、その後は次男ミンマン帝の系統が王位を継承してきた。

 ミンマン帝の末裔で、1932年、19歳で帝位についたのが、バオダイだった。パリ留学時代には乗馬、狩猟、テニスに明け暮れ、帰国後も「ナイトクラブの帝王」などと呼ばれていた。フランス総督府に可愛がられ、その意のままになる「傀儡王」の異名さえあって、国民の反発は強かった。

 それに対して、総督府からの官職就任の誘いには一切、応じないクオン・デに、独立革命家たちは目をつけた。そのリーダー、ファン・ボイ・チャウが風水の先生という触れ込みでクオン・デと面会し、よもやま話を始めると、クオン・デはフランス人の横暴とそれに媚びるベトナム人高官たちの不甲斐なさを口を極めて痛罵した。

 ファンが思い切って独立運動の計画を打ち明け、「候の出馬をぜひに」と願いでると、クオン・デは「よろしい、私は父祖の社稷(しゃしょく)を守るためなら家も妻子も捨てます」ときっぱりと答えた。

 その後、ファンが日本で大隈重信、犬養毅の支援のもと、東遊(ドンズー、日本に学べ)運動と銘打って300名に及ぶベトナム人留学生を日本に呼んだ中に混じって、明治39(1906)年3月、クオン・デは横浜に上陸した。時にクオン・デ24歳、妻と幼い子供二人を残したまま、再び故国に戻ることのない流浪の日々の始まりだった。

■5.流浪の日々

 東遊運動は明治41(1908)年には破局を迎える。独立運動を警戒するフランス総督府が留学生たちの家族を人質にとって、帰国を迫ったからだ。同時に、フランス当局はファンとクオン・デの身柄引き渡しを日本に迫ったが、日本政府はこれを拒否し、国外退去を命ずることで妥協を図った。

 クオン・デは明治42(1909)年10月、上海に渡ったが、その際、犬養毅は多額の寄付をし、さらにフランス官憲に捕まらないように手配をした。その後、クオン・デは香港、シンガポール、タイ、欧州などを転々とする。

 大正4(1915)年からはまた日本に戻った。犬養は毎月、大卒初任給の4倍ほどの金を渡し、クオン・デを扶けた。その後、犬養は首相となったが、昭和7(1932)年の5・15事件で暗殺されてしまう。「私にとっての日本での父は犬養毅氏である」と言い続けてきたクオン・デは悲嘆に暮れた。

 その間も、松下光廣はサイゴンからクオン・デに情報を送り、定期的な送金も欠かさなかった。また大アジア主義者グループの陸軍大将・松井石根(いわね)[b]、玄洋社の頭山満、大川周明らが犬養に代わって、クオン・デ支援を続けた。

■6.日本軍とベトナム復興同盟軍の共闘

 クオン・デは1937(昭和12)年頃から、「ベトナム復国同盟会」の結成に動き出した。ベトナム経由の蒋介石政権への物資支援ルートを断ち切るべく、日本軍のベトナム進駐が必至の情勢になってきたからである。当時は松下光廣もフランス総督府から追われて東京におり、その強い勧めもあった。

 日中戦争でシナに同情的な議論もあったが、クオン・デの「自分たちの革命勢力の強化のために、全員が臨時に手を取り合つて日本人と結び、機会を利用すべきである」との意見に一致した。東遊運動での日本留学組が多かったのも、一助となった。クオン・デが総裁に選ばれ、松下が総裁代行となって、大南公司の支店網を通じて、ベトナム各地の同志たちと連絡をとった。

 日本の南方進出の拠点とされた台湾総督府は、クオン・デに台北からのベトナム語放送を依頼した。このラジオ放送を通じて、「グエン王朝の皇子クオン・デ候が帰ってきてベトナムは独立する」と広く信じられるようになった。

 同時に、現地日本軍の支援も受けて、「ベトナム復興同盟軍」も組織された。1940(昭和15)年ドイツに降伏し、講和したフランス政府と交渉して、日本政府はベトナム北部への平和進駐を合意した。

 シナとの国境沿いにあるドンダン要塞では、納得しないフランス軍が抵抗し、激しい戦闘となった。この時、先導役を務めたのが日本軍に合流した約3千人のベトナム復興同盟軍だった。彼らはフランス軍内部のベトナム人兵士らと示し合わせて、戦うふりはするが日本兵は撃たない事を約束させていた。フランス軍は多くの戦死者を出して、わずか半日で降伏した。

 この後、日本軍の南進に合わせて、地方の農民や各地の青年が馳せ参じ、復興軍は6千人ほどにも膨れあがった。日本軍はフランス軍から押収した武器弾薬を彼らに与え、ベトナム人兵士らの士気はますます盛んになった。

 当時、ベトナム国内を旅行する日本人を「路頭の苦力(クーリー、肉体労働者)や農村の水呑百姓までが、・・・血肉を分けた同胞のように迎えてくれた」という。そして子供たちは「遠い東の国から一人の王子さまが還ってくる」という歌を歌っていた。

■7.奇妙な平和

 しかし、この時期はアメリカが対日経済圧迫を強めつつあった。北部ベトナム進駐の目的は蒋介石支援ルートの封鎖にあったので、平和進駐によってそれが達成できれば、それ以上、フランス軍と事を構える余裕はなかった。日本軍は間接統治に切り替え、フランス軍が戻ってきた。

 日本軍の将校たちは、ベトナム復興同盟軍に山岳部でのゲリラ戦を勧めたが、彼らはそれを聞かず、ハノイに向かって南進を続けた。日本軍の援護も補給もないまま、フランス軍に立ち向かい、多数の死傷者を出して四散した。

 クオン・デら、「ベトナム復国同盟会」の幹部たちも日本軍の北部ベトナム進駐に合わせて、現地入りをしようとしたが、日本軍に拒否された。クオン・デは落胆し、台北を撤収して東京に引き上げた。

 翌1941(昭和16)年7月23日、日本軍はベトナム南部への平和進駐を開始した。この頃、アメリカは日本と和平交渉をしつつも、英国、オランダなどと対日包囲網を築いて、経済的に日本の首を絞めつつあった。

 ベトナムは日本包囲網の一環であり、米英が先手を打って攻めてくる恐れが十分にあった。逆にサイゴン近辺に飛行場を作れば、イギリス領のマレーシア、シンガポール、オランダ領のインドネシア、アメリカ領のフィリピンを攻撃できるようになるという戦略的見通しもあった。

 サイゴン周辺に3ヶ月で6カ所もの飛行場を造るという計画を任せられるのは、ベトナム民衆を掌握している光廣しかいなかった。光廣は数千人のベトナム人を雇い、建設工事を進めた。毎日きちんと支給される賃金と給食に現地作業者たちは喜んで働いた。

 この建設工事が間に合って、12月10日、ここから飛び立った航空部隊が、イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを沈めたのである。[C]

 しかし日本軍は限られた戦力をイギリスの軍事拠点シンガポールと石油資源のあるインドネシアに集中せざるを得ず、ベトナムではフランス軍との和平協定を護って、奇妙な平和が続いた。そのために、日本軍がフランス軍を排除してベトナムに独立をもたらす、というベトナム人の希望は叶えられなかった。

■8.「故国ヴェトナムで死なせたかった」

 しかし、日本軍の旗色が悪くなると、フランス総督府はド・ゴール率いる亡命政権寄りの政策を採り始める。ここに英米軍が上陸すると日本軍は挟撃を受ける恐れがあることから、1945(昭和20)年3月、現地フランス軍を排除し、ベトナム、カンボジア、ラオスを独立させた。

 ベトナムに関しては、光廣や松井石根大将の後押しで、クオン・デを国家元首に、現地独立運動のリーダー、ゴ・ディン・ジェム(後の南ベトナム初代大統領)を首相に、という筋書きが出来ていたが、現地の日本軍は、バオダイ帝を勝手に退位させるのは内政干渉に当たるとして、そのシナリオを拒否した。

 その5ヶ月後に、日本は敗北し、クオン・デは帰国のチャンスを永遠に逃した。昭和26(1951)年4月、クオン・デは69歳にして、45年に渡る独立運動の末に、日本の土となった。祖国はフランス軍がバックアップするバオダイ帝の南ベトナムと、中共の支援を受けるホー・チ・ミンの北ベトナムに分かれて戦い合っていた。

 クオン・デの遺書は「全ヴェトナム同胞に告ぐ」と題され、完全独立と国内戦の停止を訴えていた。告別式に出席した光廣は、こう語っている。「公はバオ・ダイ政権が曲りなりにも育ってゆくのを見て喜んでおり、早く帰って協力したいと常にいっていた。故国ヴェトナムで死なせたかった」

 二人が台北で出会ってから23年の歳月が流れていたが、ベトナムの独立を願う二人の志と友情は終生揺るがなかったのである。

 光廣は戦後も大南公司の経営を続けたが、北ベトナムがサイゴンを占領すると、すべての事業を接収され、身一つで故郷・天草に戻った。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(1001) ベトナム独立運動を扶けた日本人
 ベトナム独立に共鳴する日本人の支援を受けて、300名に及ぶ留学生が日本で学んだ。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201704article_5.html

b. JOG(081) 松井石根大将
 南京事件当時の司令官だった松井大将は古くからの日中提携論者だった。
【リンク工事中】

c. JOG(270) もう一つの開戦 ~ マレー沖海戦での英国艦隊撃滅
 大東亜戦争開戦劈頭、英国の不沈艦に日本海軍航空部隊が襲いかかった。
【リンク工事中】

d. 歴史人物学習館「クオン・デ」
クオン・デ | 歴史人物学習館 (rekijin.net)

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

  1. 牧久『「安南王国」の夢―ベトナム独立を支援した日本人』★★★、ウェッジ、H24
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  2. 田中孜『日越ドンズーの華―ヴェトナム独立秘史 潘佩珠(ファンボイチョウ)の東遊(ドンズー)(=日本に学べ)運動と浅羽佐喜太郎』★★★、明成社 、H22
    http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4944219903/japanontheg01-22/

■『世界が称賛する 日本の教育』へのおたより

■私はその子の人生を背負うつもりで寺子屋教育をする(誠治さん)

日本の伝統的な教育がいかに優れていたかということを、主観からではなく、客観から伝えていく本。

データや海外との比較を通して描かれているので、日本万歳という右翼的な内容ではない。

また、江戸時代の古き良き日本を思い出させてくれるが、これまた感傷的ではなく、史実に基づいた話となっているのがよい。

私も、寺子屋楠と、寺子屋という名前を付けたのには意味がたくさんある。

その一つが、この先生に一からずっと習いつづけることの大切さだ。
今の塾は、小学生は小学生、中学生は中学生、高校生は高校生の塾に通っている。

その子の成長などは度外視して、目の前の結果を出せる塾が選ばれている。

受験がゴールで、合格にしろ、不合格にしろ、塾はいったんやめますというのが多い。

勉強を教えてもらうだけとわりきればそうだろう。

しかし、私はその子の人生を背負うつもりで教育をする。

江戸時代の寺子屋も、人間形成が最終目標だったように、わたしも、人として生きていく力こそ育むべきだとおもうのだ。

日本の教育制度が変ればいいが、この集団教育を変えていくには多くの時間を有するだろう。

であれば、自分が今できることとして、寺子屋楠という塾をひらいている。

さて、この本が古くも新しいのは、『学力の経済学』などに代表される統計的な教育の考え方とも遜色ないところだ。

つまり、現代的な意見、統計、考え方などをおりまぜながら、日本を見つめなおすと、昔いいことやってたよと教えてくれる温故知新の本なのだ。

ますます、今自分の行っている教育が、大切なのだと再認識し、自信を持ってまた一歩進めることを感謝したい。

良い本をありがとうございました。

★伊勢雅臣『世界が称賛する 日本の教育』、育鵬社、H29
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594077765/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(8/3)、総合41位

■伊勢雅臣より

 学力強化だけの塾か、人間育成の寺子屋か。「その子の人生を背負うつもりで教育をする」という誠治さんの志を有り難いと思います。

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