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【YouTube版】楠木正成 ~ 花は桜木、人は武士

 その純粋な生き様は武士の理想像として、長く日本人の心に生きつづけた。

■1.正成一人いまだ生きて有りと聞こしめされ候はば■

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 鎌倉武士の近ごろの悪逆非道ぶりは、すでに天道のとがめを受けるほどでございます。その衰え乱れ、弱りはてたのに乗じてこれに天誅を加えるのに、何の困難がございましょう。ただ天下統一の業が成功するには、武略と智謀とのふたつが必要です。・・・

 勝敗は合戦のつねでございますから、一時の勝負を必ずしもお気にかけられるには及びません。この正成(まさしげ)ひとりがまだ生きているとお聞きくださいましたら、帝の御運は必ず最後には開けるものとお考え下さい。[1]
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 元弘元(1331)年8月27日、再度の倒幕計画が漏れ、後醍醐帝は奈良北東山中の笠置寺に逃れられた。そこで夢の中に大きな常磐木の南に伸びた枝が勢いよく張って、玉座を守っているという夢を見られた。木に南と書けば、「楠」となる。「このあたりに楠と称する武士はおらぬか」とお尋ねになって、早速召し出されたのが、河内の国金剛山の西麓に領地を持つ楠木正成であった。

 すぐに参上した正成が、天下統一のための策略について問われ、申し上げたのが冒頭の答えであった。最後の一節のみ太平記の原文で味わっておこう。

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 正成一人(いちにん)いまだ生きて有りと聞こしめされ候はば、聖運つひに開かるべしと、おぼしめ候らへ。
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 地方の一豪族からの天下の鎌倉幕府への大胆不敵な宣戦布告と言えよう。それから2年後の元弘3(1333)年5月の鎌倉幕府滅亡を経て、5年後の延元元(1336)年5月の湊川での自刃まで、正成のこの言葉通りの獅子奮迅の戦いぶりは、武士の理想像として、その後の日本人の心に長く生き続けた。

【続きは本編でご覧ください】


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