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JOG(384) サムライ化学者、高峰譲吉(下)

「日本は偉大な国民の一人を喪ったとともに、米国は得難き友人を、世界は最高の化学者を喪った」

(前号より続きます)


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■1.「これこそ醸造界の革命です」■

 高峰譲吉は試験管を人々の前に高く掲げて見せた。その中の液体は、窓から差し込む陽光を吸収して黄金色に見えた。人々の声にならない感嘆が実験室に満ちた。1891(明治24)年、シカゴのとある醸造所での事であった。

 その試験管の中の液体が小さなグラスに注がれ、それを技師達が口に含むと、感嘆が驚きの声に変わった。「素晴らしい!信じられない」 譲吉の発明した新しい醸造法で作られたウイスキーは、従来のものよりも味も香りも良かった。

 従来のモルト・ウイスキーは、6ヶ月もかけて大麦を栽培し、それを6日間かけて大量に発酵させて作っていた。それに対し、譲吉の発明した方法では、麦粉製造過程の廃棄物として出る麦皮、すなわちフスマを利用し、日本古来から伝わる麹(こうじ)を作る。その糖化素の力はモルトよりも強く、わずか48時間でウイスキーができるのである。

 ウイスキー・トラストの代表者グリーン・ハットが、つかつかと譲吉に歩み寄り、その手を握って言った。「素晴らしい。これこそ醸造界の革命です。どうか、我々のために成功させてください。」

■2.「あんたが、日本から新しい酒を造りにきた人かね」■

 シカゴから南西に向かって約350キロの小都市ピオリア。大規模な醸造工場が軒を並べるウイスキー・トラストの本拠地である。ここに譲吉は妻子と共に移り住んで、新しい醸造法によるウイスキーの量産化に取り組んでいた。

 試験的に量産化したウイスキーを町のいくつかの酒場に置いてもらった。譲吉が訪れると、酒場の主人は相好を崩して「評判は上々です」と迎えた。一人の老人客が話しかけてきた。 あんたが、日本から新しい酒を造りにきた人かね。この歳になって、うまくて新しい酒を飲めることに感謝するよ。と言ってグラスを上げると、数人の客が同調した。譲吉は胸が熱くなった。

 しかし譲吉が酒場を出ようとすると、出口を塞いでいた3人の男が汚い言葉を投げつけてきた。譲吉が無視して通り過ぎようとすると、背後からその足をすくい、譲吉は階段を転げ落ちた。妻キャロラインが言った。「あなた、ここはアメリカです。日本のように謙譲の心は通じません。たとえ負けても、戦うときに戦わないと、かえって信頼を失います。」

 譲吉は足を救った男を階段から投げ飛ばし、他の一人がナイフで襲いかかってくると、これも地面に叩きつけた。譲吉の手には男から奪ったナイフがあった。柔術を知らないアメリカ人たちは、魔法でも見たように言葉を忘れて立ちすくんでいた。

■3.漆黒の夜空を焦がす炎■

 この3人は、譲吉の新しい醸造工場が完成すれば、職を奪われるモルト職人だった。自分の発明を喜んでいる人々がいる一方で、困る人々が出てくる。それが時代の流れだとは、譲吉には割り切れなかった。

 譲吉はグリーン・ハットに頼んで、これらのモルト職人を従来より高い賃金で新工場で採用する事ととし、真っ先にあの3人を雇って貰った。これでモルト職人たちの譲吉に対する敵意は雲散霧消した。

 しかし、譲吉の新工場を恨んでいたのはモルト職人だけではなかった。モルト工場に巨万の資金をつぎこんでいた醸造所の所有者たちは、なんとか譲吉の新醸造法を止めさせる手だてはないかと、密かに会合を持っていた。

 いよいよ本格的に量産を始めた日の夜、誰もいないはずの工場から、突然、火の手が上がった。譲吉が駆けつけると、すでに工場の3分の2が激しい炎に包まれていた。

「モルト業者の仕業に違いない」「犯人は警察がきっとつかまえるから、力を落とさないように」と駆けつけた人々は譲吉を慰めた。しかし、この火事がモルト業者の仕業であるにしても、不思議と彼らを恨む気持ちは湧かなかった。

 漆黒の夜空を焦がす炎の凄まじい咆哮を聞きながら、譲吉は幼い頃に父の背で見た「泣き一揆」の人々の空腹を訴える叫び声を思い出していた。「自分の発明は、すべての人々に役立つものでありたい」と譲吉は改めて思った。

■4.タカジアスターゼの発明■

 1894(明治27)年、ウイスキー造りをあきらめた譲吉は、シカゴに移って、化学の研究に没頭した。キャロラインが陶器類の下絵を描く仕事をして、苦しい生計を支えた。

 譲吉はウイスキー造りの経験からヒントを得て、モルトからデンプンを分解する酵素(ジアスターゼ)を取り出し、消化を助ける薬を作り出した。譲吉の取り出した消化酵素は「タカジアスターゼ」と命名された。「タカ」は高峰の「高」とよく誤解されるが、ギリシャ語の「最高」「優秀」という意味である。

 譲吉は各地の医学会でタカジアスターゼの学術的な意義と薬としての応用を訴えて歩いた。それに応えて、ハーバード大学の研究室がその治療上の効果を実証してくれた。

 1897(明治30)年春、デトロイトに本社をおくパーク・デービス製薬会社からタカジアスターゼの全世界の「独占販売権」を買いたいとの申し出があった。自分の発明した薬が世界の人々の役に立つと、譲吉は喜んで申し出を受け入れた。しかし「日本における販売権だけは除外して欲しい」との条件をつけた。日本だけは日本の会社にまかせたいという、明治日本のサムライらしい気持ちからだった。

 新薬が売り出されると、胃のもたれがなくなると全米で大評判となった。

■5.塩原又策と三共商店■

 この薬を日本で販売しようと決心した塩原又策という若者がいた。友人を通じて、タカジアスターゼの日本での販売を許可して貰えるよう依頼すると、譲吉はすぐに承諾した。塩原は、友人たちとともに3人共同で始めた会社という意味で「三共商店」を興した。

 明治35(1902)年、ヨーロッパへの講演旅行の途上、譲吉は日本に立ち寄って、塩原と初めて会った。塩原は夜更けまでタカジアスターゼの瓶詰め作業をしていて、不審に思った警官に踏み込まれた時の話をした。

 塩原が警官たちに譲吉の業績と人となりを敬愛をこめて説明し、「今、アメリカはおろかヨーロッパでも、日本人として高峰博士は、大きな尊敬を受けておられます。その博士が発明された薬を、私どもは、国内で販売するために頑張っているのです」と語ると、警官たちは感動をあらわにした、と言う。

 こうした苦労話を屈託なく語る塩原に、譲吉は感激して、幼い日に見た「泣き一揆」の事を語り、そして塩原の手を握りつつ言った。

 塩原君、私はね、その時以来、医師になることをあきらめ、化学者になる決意をしたんですよ。私の発明するものが、わずかでもいい、すべての人に役立つものであってほしい、と思い続けて、今日まで歩いてきたと考えるし、これからも歩いていきたいと願っています。今、幸いにして、医学に少しでも貢献できたことを、私は喜ばしいと思っております。そして日本で、そんな私の発明品を普及するために努力してくださっている君に、心からお礼を申し上げたい。

 塩原は後に譲吉を社長として、薬の製造までも行う三共株式会社を興す。現在、「新三共胃腸薬」などで有名な国内第2位の製薬会社である。

■6.20世紀の医学の幕開け■

 1900(明治33)年、パーク・デービス社の技術顧問となっていた譲吉は、研究助手・上中啓三とともに、アドレナリンの純粋結晶の創製に成功した。

 当時の医学界では外科手術がめざましい発達を遂げていたが、血圧の上昇抑制と止血作用がうまくできず、出血多量で死亡するケースが多かった。副腎から分泌されるホルモンが止血作用に効果があるという所まで分かっており、動物の副腎からエキスをとって医薬として使っていた。これは変質腐敗しやすく、また不純物が多いために副作用を起こす危険があった。

 副腎ホルモン抽出は、世界中の医者や生物学者の間で激しい研究開発競争が繰り広げられていた。それに割り込んだ譲吉が3年間の上中との研究によって、いち早く副腎ホルモンの結晶化に成功したのである。譲吉はこれを「アドレナリン」と名付けた。

 アドレナリンは従来の副腎エキスの200倍もの効果を発揮して、医学界を驚かせた。ライバルだった世界の研究者たちからも祝福の電報が寄せられた。

 アドレナリンは、内科、外科だけでなく、耳鼻咽喉科、歯科、眼科、皮膚科など、あらゆる分野で用いられるようになった。また世界最初のホルモンの結晶抽出成功は近代ホルモン学の基礎となり、ここから20世紀の医学が発展していった。

■7.「無冠の大使」■

 タカジアスターゼとアドレナリンの発見によって世界的な名声を博した譲吉だが、個人的な成功に酔っている余裕はなかった。1904(明治37)年2月10日、新聞の一面に踊る「日本とロシア開戦」との見出しに、譲吉は「とうとう始まったか」と息をついた。

 2週間後の朝、駐米公使の高平小五郎から電話があった。アメリカで親日世論を起こして米国を味方につけるべく派遣された全権大使・金子堅太郎がニューヨークに着いたので、ぜひ会ってほしい、というのである。

 譲吉は金子に、ロシアが独立戦争や南北戦争でアメリカを援助してくれたことから米国民の8割はロシアに好意を持っていることを話し、難しい使命だと語った。しかし、祖国のために死力を尽くそうと誓い合った。

 その3日後、ニューヨーク・プレス紙の日曜版が市民を驚かせた。「日本における諸科学の驚くべき発達」と全段抜きの見出しのもとで、譲吉の寄稿記事が掲載されていた。そこでは日本人がいかに平和を愛しているかを説き、その証拠に明治維新後、わずか30余年で近代医学を発展させ、北里柴三郎による血清療法の発見という世界的な貢献をなした事を紹介していた。これが譲吉が「無冠の大使」として活躍した第一歩であった。

■8.日米の架け橋■

 この後、譲吉は妻キャロラインとともに、講演で全米を飛び回り、また自宅でのパーティに政財界人を招待して、親日世論の醸成に努めた。一方の金子堅太郎も、精力的な講演活動を続ける傍ら、ハーバード大学での同窓ルーズベルト大統領に働きかけて、日本に有利な局面でロシアに講和を働きかけて貰うことに成功する[a]。金子は後にこう語った。

 まことに、このようなご夫婦は、日本にとって国の宝である。もし、あの戦争の時、高峰博士と夫人とがいなかったら、私は、あれだけの仕事に成功することはできなかったでしょう。 

 譲吉とキャロラインの民間外交は、日銀副総裁・高橋是清の外債募集にも大きな効果を及ぼした。その目標額は2千万ポンドであったが、高橋が同盟国イギリスで集められたのはその半分であった。米国では目標としていた500万ドルの5倍もの資金が集まった。ユダヤ財閥の支援もあったが、譲吉が種を蒔いた親日世論が大きく育っていた成果でもある。[b] 
 
 こうした民間外交の重要性を経験した譲吉は、1905(明治38年)3月、自らが会長となってニューヨークに「日本クラブ」を作り、以後、日米間の相互理解と親善に力を尽くした。

■9.セント・パトリック教会の「君が代」■

 しかし、日露戦争後は日米両国の利害対立が目立ち、関係が悪化していった。カリフォルニアでは日系移民排斥が激化した。

 1921(大正10)年、第一次大戦後の軍縮問題と極東問題を討議するためにワシントン会議が開かれることになった。日本からの使節団と一緒に訪米した渋沢栄一が、譲吉を訪問した。譲吉は、寄る年波と日米友好のための激務で、体を壊し静養中だった。アメリカに渡って30年、懐かしい故郷に帰って老後を過ごしたいと弱音を吐く譲吉に、渋沢は涙を流しながら言った。

 私は心を鬼にして言わねばならない。あなたが骨を折ってこられた日米関係は、あなたの学問的成功に比べては、ほど遠いということです。絶えず紛議を生じ、太平洋に暗雲を漂わせているのです。この日米間の暗雲を取り除けるのは、高峰さん、あなたしかいない。・・・どうか、日米親善という大目的のために、これからも尽くしてほしいのです。私も、老躯にむち打って働くつもりです。

 譲吉はただ黙って頷くしかなかった。そして主治医の止めるのも聞かず、「これが最後のご奉公になるかもしれない」とキャロラインに言い残して、ワシントンに向かった。そして日本の使節団を米政府高官や政財界の有力者に紹介して回った。

 ワシントン会議が始まって一ヶ月、譲吉は倒れて、そのまま意識を戻すことなく、大正11(1922)年7月22日、68年の生涯を閉じた。ニューヨーク5番街にあるセント・パトリック教会での葬儀には、日米600名もの人々が集まった。柩を墓地に送り出そうとする時、キャロラインが日本人の会葬者たちに呼びかけた。「ジョウキチが愛してやまなかった、日本の国歌で送ってあげて下さい」

「君が代」の静かな大合唱が聖堂に響き渡る中を、譲吉の柩は担ぎ出された。翌日、ニューヨーク・ヘラルド紙は譲吉の死をこう悼んだ。 日本は偉大な国民の一人を喪ったとともに、米国は得難き友人を、世界は最高の化学者を喪った。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a.

 b.

■参考■

(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 真鍋繁樹『堂々たる夢』★★★、講談社、H11

2. 山嶋哲盛『日本化学の先駆者 高峰譲吉』★★★、岩波ジュニア新書、H13

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■「サムライ化学者、高峰譲吉(下)」について

遠賀さんより
 このように素晴らしい日本人化学者がいたということはほとんど知られていません。譲吉さんの幼い頃に父の背で見た「泣き一揆」の人々の空腹を訴える叫びを彼は生涯忘れることなく、重大な局面での判断のよりどころにされた崇高な精神に感動しました。

 このように人間は幼い日の強烈な体験や学習がその人の生涯で物事の判断をする場合に大きく影響することは多く証明されています。幼児或いは低学年時の教育の大切さをもっと認識しないといけないと思います。そのためにこのような良書をもっともっと普及させるような活動が必要と思っています。

Kazyさんより
 高峰譲吉博士については、小学生のときに購読致しておりました「学研の学習」の付録にて名前とタカジアスターゼ発見の業績については知っておりましたが、ここまでの偉業を為した方とは存じませんでした。

 子は親を見て育ちますが、社会に生きていく上で高峰譲吉博士のような偉人たちは、「社会においての親」であり人生の模範を示す存在であると思います。そのような方々の事を教えずに来たことが、最近の「未来に希望を持てない若年層」を増やしたことの一因でもあると思います。
 もし、彼らが、幼少期に、高峰譲吉博士のような方のことを聞いていて、かつ、分野や程度は違えどそれと同じこと或いはそれ以上のことが成し遂げられる素質を、同じ日本人である自分達は持っているのだと言い聞かされていたのであれば、今の彼等の姿ももしかしたら違ったものになっていたのかもしれないと思うことしきりです。

Yasuさんより

 高峰譲吉博士については、タカジアスターゼのことしか知りませんでした。アドレナリンの発明や日本の化学肥料の父など大変な活躍をした人物なのですね。あまり偉人伝などでも見かけませんが。 
 
 それにしても、子供のころ、偉人伝みたいな本には「うそ臭さ」を感じて、殆ど読まなかったことを今更ながら惜しまれます。1年ほど前、NY日本クラブの(100周年?)記念誌を見る機会があり、高峰博士が初代会長というのを読んだ記憶はありますが、なぜ彼がNYにいたかも知らなかったのですから、無知とは恐ろしいものです。博士のような日米友好のために働く人が続けば、あの不幸な戦争も避けられたのかもしれませんね。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 高峰博士のような偉人を抹殺してきた戦後教育が、青少年の心を蝕んできたのですね。

© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.



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