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国際派日本人女性ここにあり

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幕末・明治時代に伝統的な教育を受けた日本人女性で国際社会で活躍した人々は少なくありませんでした。
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JOG(1363) 明治の国際派日本女性ここにあり ~ 明治の女性たちがなぜ海外で活躍できたのか?

 江戸時代の伝統的教育しか受けていない女性たちが、なぜ海外で活躍できたのか? ■1.ひどい「男女格差」でも「女性の幸福度」はトップレベル?  世界男女格差報告書(2023)では、日本は146カ国中125位と下位に沈んでいます。先進国中ではもちろん最下位ですし、韓国105位、中国107位よりも低いのです。なかでも「国会議員の男女比」131位、「管理職の男女比」133位などが足を引っ張っています。  しかし、日本女性が「ひどい男女格差」のために不幸になっているかというと、そ

JOG(1361) 津田梅子 ~ 8歳での米国留学から女子英学塾創設

「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」-その理想に一生をかけた国際派日本女性。 無料メルマガ受信: https://1lejend.com/stepmail/kd.php?no=172776 ■1.「父上ッ」  明治15(1882)年11月20日、客船アラビック号がサンフランシスコから20日余りの航海を経て、横浜港に入ってきました。11月の太平洋は雨や雪の日が多く、来る日も来る日も黒雲の下を帆を張って進んできましたが、ここ横浜では冷たい風が吹きつける

JOG(1020)下田歌子 ~「ゆりかごを揺らす手が世界を動かす」

 歌子は平安王朝の官女そのままの姿で、ヴィクトリア女王の謁見に臨んだ。 ■1.バッキンガム宮殿での平安朝衣装  1895(明治28)年5月8日、教育者として英国留学中の下田歌子はヴィクトリア女王との謁見を許された。大英帝国の女王の前に出るのは、日本女性としては歌子が初めてだった。  華やかな飾りをつけた馬車が続く中の一台に、背筋をピンと伸ばした歌子がいた。その姿は日本の平安王朝時代の官女そのままの衣装だった。髪は長く後ろに垂れて櫛を指している。待合室で朗々たる声で名を呼

JOG(747) 大山捨松(下)~貴婦人の報国

 女子留学生第一号として帰国した捨松は、国に報いる道を求めた。 ■1.帰国  明治15(1882)年11月21日、大山捨松と津田梅子を乗せたアラビック号は、美しく晴れ渡った横浜港に入港した。二人にとっては丸11年ぶりに見る祖国であった。  出迎えに来てくれた肉親たちとゆっくり話をする間もなく、二人は「乳母車を大きくしたような」人力車に押し込まれ、街道の両側に並ぶ小さな家々を見て、「まるで小人の国に来たガリバーのような」気がした。  牛込の山川家につくと、母親が次兄・健

JOG(745) 大山捨松(上)~日本初の女子留学生

 12歳でアメリカに渡った捨松は、伸び伸びと育ちながらも、国を思う心は忘れなかった。 ■1.「ずいぶんとむごいことをする親もいるもんだ」  明治4(1871)年11月12日、横浜港沖にはマストに日米両国の国旗を掲げた郵便船アメリカ号が停泊していた。欧米諸国を巡回して西洋文明を調査しつつ、不平等条約改正の予備交渉を進めようという岩倉使節団の出発の日である。  波止場は総勢107名の大使節団を見送る人出でごったがえしていたが、その中でも人々の注目を集めたのは、駐日公使デロン

JOG(619) 武家の娘(下)~ アメリカに生きる

 武家の娘は、西洋も東洋も人情に変わりはないことを知った。 ■1.アメリカの「お母上」■  松雄と鉞子(えつこ)はウィルソン夫妻の邸宅で20日ほど過ごした後、6月の美しい日に結婚式をあげた。花の香の充ち満ちた部屋に象牙細工をほどこしたテーブルが置かれ、その前には日米両国旗が交叉して掲げられていた。二人はそこに並んで立ち、聖書の朗読が行われた。参列者はみな、美しい結婚式だと賛美した。  やがて、二人はウィルソン夫人の親戚の未亡人の家に住むことになった。近くの丘の上に立つ、

JOG(618) 武家の娘(上) ~ 千年の老樹の根から若桜

 武家という「千年の老樹」に生まれ育った娘は、若桜として異国の地に花を咲かせようとしていた。 ■1.「どうして日本の着物を着て来たのですか」■  1898(明治31)年、アメリカ東部のある町。大陸横断鉄道の列車が停まると、長袖の着物姿のうら若い日本人の娘が降り立った。プラットフォームの人混みの中では、一人の日本人青年が汽車から降りてくる乗客を熱心に見守っていた。お互いにすぐに相手に気がついた。青年の第一声は「どうして日本の着物を着て来たのですか」と不満そうな言葉だった。

JOG(169) 欧州合衆国案の母・クーデンホフ光子

 欧州連合の原案を提唱したカレルギー伯爵は、日本人として誇りを抱く光子に生み、育てられた。 ■1.欧州合衆国の理想■  ウィーンの街は、王宮、市庁舎、オペラ座、シュテーファン 大寺院、そしてやや郊外にあるシェーンブルン宮殿と、重厚か つ壮麗な建築物に富み、650年も続いたハプスブルグ王朝の 盛時を今も偲ばせる。  19世紀にはオーストリア・ハンガリー二重帝国として12 もの多民族を抱えていたが、民族独立の風潮の中で、1914年、 皇太子フランツ=フェルディナンドがセルビ