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【グリハ出版界隈残侠伝1】フリーのライター生活の始めは、人脈作りしかなかったことなどを思い出した。

■俺は筆1本に懸けるんだ!

これはおよそ40年も前の話だ。今のフリーのライタ-や編集者にはまったく参考にならない。そのとき、タコの介は勇気に萌えていた。勇気が萌えるものかは分からない。「男子一生、筆一本に懸ける」と昭和の時代そのものに、鼻息だけは荒かった。

時代は1980年代に突入しようとしていた。青春が爆発した80's「ボヘミアン・ラプソディ」のクイーンたちが暴れていた時代。

デヴィッド・ボウイ、TOTO、ダリル・ホール&ジョン・オーツ、サンタナ、ボズ・スキャッグス、シンディ・ローパー、カルチャー・クラブ、ビリー・ジョエル、オリビア・ニュートン・ジョン。
もう、涙するアーティストはキラ星のごとくならんでいた。

そんななか、大学まで出してもらったタコの介は、親父に仕事のことを聞かれて「文章を書いて食ってゆきたい」と答えていた。

「出版社か新聞社に入るのか」
「いや、フリーのライターになる」
「ほう、そんな道があるのか」

これだけで親父はなにも言わなかった。賛成とも反対とも。いま、ふたりの成人した娘を持つタコの介としては、「すげーなぁ」としか思えない潔さだ。その親父ももういない。

■出版社員より稼がなくてどうする

タコの介は大学時代から雑誌の編集部に顔を出していた。マスコミ塾みたいな講座も受けた。講座の中身なんか関係なく、講座の講師が目的だった。講師をハブにいろんな人脈を広げていった。

当時はノンフィクションライターやルポライターが脚光を浴びて、有能な書き手が頭角を現す時代だった。沢木耕太郎、猪瀬直樹、足立倫行、久田恵、後藤正治、関川夏央、佐野眞一、吉岡忍など、主力はみんなタコの介より少し上の団塊の世代だった。タコの介はこれらのライターとはその後、仕事の上でほとんど顔を会わせることになる。

フリーの財産はなにか。それはいまも昔も人脈だ。フリーは基本的にルーティーンの仕事は少ない。不安定だ。それは覚悟している。続きのない仕事をつなげてくれるのが人脈というありがたいつながり。今風だとB2B(ビーツービー)のようなもの。ちょっと違う?

こうしてタコの介は複数の雑誌編集部に出入りするようになった。20代後半のことだ。これで取材と原稿書きで飯が食えるようになったのだ。

時代はバブルが思いっきり膨らんで、着々と弾ける準備をしているときだった。雑誌の時代を迎えていた。打ち明けちゃうが、タコの介の主戦場はマガジンハウスとNHK出版だった。『ポパイ』『ブルータス』『ダ・カーポ』『anan』『クロワッサン』などなど。

雑誌の原稿料はよく、できるやつは担当編集者の給料をこえていた。高給取りと言われていた出版社社員より稼いでいた。そうじゃなきゃフリーなんてやらない。タコの介はそう思っていた。

当時、若者に人気の職業がカタカナ職業。エディター、ライター、カメラマン、グラフィックデザイナー、コピーライター。みんなフリーがひしめいていた。

そんなフリー全盛のゆかいな時代。タコの介はさらなる事業拡大を狙って、有限会社の編集プロダクションを設立するのだ。ちなみにタイトルの【グリハ】というのは当時の会社名の【グリーン・ハット】の略。ハットは3人の共同設立者のイニシャルだ。

#ライター  # ノンフィクション #編集プロダクション


タコの介のnoteに来てくれて、ありがとうございます。小学3年生。はじめて釣り竿を両手でにぎりしめてから、釣りが趣味となり、いつの間にか仕事にも。書くことの多くが釣りになりました。そんな釣りにまつわるnoteです。どうぞよしなに。