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柿の種チョコ【掌編小説】

 ざらざらとお皿に出すと、そのうちの一粒が、おもむろによっこらしょと立ち上がった。
 よくよく見ると、黒く短い脚が六本、左右対称に生えていた。
「よう、驚いたろう」
 脚の生えた柿の種チョコは、その他大勢の普通の柿の種チョコのうえで、こころもちふんぞり返った。
 驚いたろうといわれると、案外素直に驚けないもので、
「べつに」
 とそっけない返事をした。
「べつにってこたぁないだろ。あんたはいま俺を食べようとした。だが俺はいまや柿の種チョコじゃない。俺は虫だ。どうだ、あんた、黒くて光沢があって細長い虫の俺を食べることができるか? イエスかノーか、シンプルに二択で答えてもらおうか」
「ノー」
「ほらな、そうだろ。そうだろうともさ」
 柿の種チョコは右側の前足をぱちんと鳴らした。指があるようには見えないが、昔の映画で伊達男が指を鳴らす、ちょうどあんな格好の付け方だ。
「しかもこの強烈な体験のおかげで、あんたは今後、普通の柿の種チョコもみんな虫に見えちまうんだ。どうだい、二度と柿の種チョコが食べられない体になった気分は?」
 柿の種チョコは……いや、黒い虫は、得意の絶頂にあるようだった。私はちょっと残酷な衝動に駆られた。
「と、いうか、私、最初から柿の種チョコ嫌いだから」
「……なんだって? 馬鹿なこと言うない」
「だって、チョコと柿の種は別々に食べる主義だから。もらったはいいけど食べないから、犬にやろうと思ってたの」
 虫は見るからにがっくりと肩を落とした。肩らしい部位のないつるんと流線型の体で、それでもそう見えたのだから、よほど気落ちしたのだろう。
「じゃあなにか、俺が仲間とたもとを分かち、アイデンティティを放棄してまで虫になって見せたって、何の意味もなかったっていうのかい?」
「そういうことね」
「あんた、知らねえのかい。犬にチョコは食べさせちゃいけねぇってこと」
「そうなの。知らなかったわ。じゃあ、これはもう捨てるしかないわね」
「いや、やめてくれ、後生だ。いくらなんでも、それじゃこいつらが浮かばれねえ。せめて庭に出して小鳥の餌にしてやってくれねぇか。そうすりゃ、こいつらだって、大空を飛べるってもんさ」
 虫があんまりしんみり語るもので、だんだんかわいそうになってきた。
「あなたはどうするの?」
 虫はありもしない肩をすくめた。
「俺には羽もあるのさ。空を目指すなら、自分でやる」
 つるつるの顔に、いや顔があるべきと思われる先端に、虫はなんともいえぬ表情を浮かべ、窓を見やった。男の表情、というものがあるなら、きっとこんな表情のことを言うのだろう。
「行くのね」
「ああ。行くのさ。俺にはもう帰るべきところなんてないからな」
 私は虫の固い意志を汲み、窓を開けてやった。
「恩にきるぜ、嬢ちゃん。また会えるといいな」
 虫はぶうんと音をさせ、青い空に向け、さわやかなカーブを描き、潔く飛び立つ。
 窓を出て上昇する虫。
 その先にあるものを、私は夢想する。それは自由か、孤独か。

 矢のように空を両断して一直線に飛来した一羽のツバメが、空中でぱくりと虫をくわえて行った。


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