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「わざわざ」をば。

 今この文章を読んでいる及び、読みたくもないのにページを偶然開いてしまったが為に画面にこの文章が表示されてしまっている諸君。新年、明けましておめでとう。なんだかんだこれが2度目の投稿になる。今年は心機一転、もう少し頻繁に投稿しようと思う。誰の為か、それはただ自分自身の為だ。過去を振り返ることの好きな私自身の、少しでも助けになれば、と思う。

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 ついこの間、2021年の大晦日に石井は栃木県宇都宮市まで行ってきた。それも、日帰りで。
 3年前(2019年)まで、11月に宇都宮で開かれる「餃子フェス」に行くのが私の恒例行事だった。とはいえ片手で数えられるほどしか参加していないが、宇都宮餃子に目がない私にとっては、2学期の通信簿を貰うのと同じぐらいそこそこ大事な行事なのだ。
 しかし2020、2021年と、コロナウイルスの影響で開催できなかった。その為2020年はわざわざバイクに跨り、宇都宮まで行って健太餃子をたらふく頂いて来た。そして2021年、同じくわざわざバイクに跨り、同じくわざわざ宇都宮まで行き健太餃子をたらふく頂いて来た。
 私の住む東京都北区赤羽(厳密に言うと志茂)から宇都宮までおよそ100km。愛車はホンダのVT750S。「まぁ大型バイクなら…」と思うかもしれないが、わざわざ下道でおよそ3時間、決して楽ではない。むしろその日の冷え込みと風の吹き具合も相まって、正直なかなかしんどかった

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 フツーなら、「たかが餃子の為に…」と思うかもしれない。私も途中、両手が凍傷になりそうになり薄れゆく意識の中、そういった雑念が何度も頭を過った。なにせ最近、北赤羽駅の近くに、無人だからと言ってナメてかかった私の想像を遥かに超える美味の餃子屋さんができたのだ。「そっちでよかったんじゃないか…」と、何度もその餃子屋の看板がチラついた。
 それでもなぜ途中で挫けることなく宇都宮まで辿り着けたか。完全にはわからない。ある種の「義務」のようでもあるかもしれない。誰に言われたわけでもない。普段から「こだわり」を持つことを大事にする自分への課題。食を提供してくれる人々に対する感謝、それを頂く側の品格、それらを大事にする自分に対する試練。「石井」という名字のルーツを辿ると「宇都宮市石井」に至るという原点回帰。その他いろいろな要素が相まった結果であろう。
 別に、途中で引き返してもよかった。でも私には常に心掛けていることがある。それは「別にいい」という、場合によってはギリギリアウトな最低基準で人生を送りたくないのだ。
 確かに、別に宇都宮で餃子を食べなくてもいいだろう。そもそも食べる気がなければ、食べなくても何も人生に影響はない。しかし一度「食べに行く」と決めてから、「別にいいか」となったらどうだろうか。そこにはきっと「挫折」「妥協」といった、人生の減点材料が付属するではないか。
 考え方によっては「切り替え」だの、「発想の転換」だの、綺麗な言葉で片づけることもできるかもしれない。だが私が思うに、綺麗な言葉を言う人は、そういう言葉をいつも「言おうとしている」のであって、それはむしろ「汚れた心の裏返し」と思っている。まぁそんなことは置いといて。

 ではどういう風に人生を送りたいか、それはなるべく「~したほうがいい」という方を選ぶという事だ。あえて言っておくが「必ず」ではない、「なるべく」だ。なぜかそうした方が、人生が彩り豊かになる気がしてならないのだ。
 その為私は、わざわざ大晦日に、こんなクソ寒い中わざわざバイクに跨り、わざわざ宇都宮まで行き餃子を食べ、すぐ帰るという一日を過ごした。しかもその2021年大晦日の出来事をわざわざ2022年の頭に報告するのである。

 餃子のおかげで再認識できた。やはり人生を彩るのは、「わざわざ」である。わざわざやったことが多ければ多いほど、その人の人生は豊かになるだろう。「無駄な時間を省く」というのが好きな、さも自分が「できる人間」と思っている人は、まるで薄っぺらい人生になることだろう。そして間違いなくソイツは、嫌な奴だし嫌われているはずだ。職種や役職や稼ぎ等の、目に見える情報で人間の優劣を決めることしかできない、薄っぺらい人間だ。私はそうはなりたくない。まだ身体が動くうちにムダなことをわざわざやって、彩り豊かな、人間らしい人生を送れたら、それは素敵なことだと思う。

 今から寝て数時間後に起きたら、また地獄のような仕事の日々が始まる。別に辞めてもいいと社長には言われているが、わざわざ出勤してやるのである。

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