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わかってないをデフォルトにしてみる


写真は20年数前に生まれて初めて買ったジャズのアルバム。
ソニー・スティットの『Burnin’』

そこからさらに遡ること4年。
フラ~っと入った天神(福岡)のカフェで流れてたのを聴いて度ハマり。
燃えてるマッチのジャケットも気に入り、すっかり魅了されました。

以来、中古レコード屋さんの近くを通るたび、仕事の移動中(当時はまだ自営の営業マン)でさえも寄り道してはレコードがないかチェックしてたほど。
そんな風に探しながら4年という歳月を経て購入。
見つけたとき、相当感動したのを今も覚えてます。

こんな話しを同世代(レコード世代)の方としてると、「そうんなんだよ。そうやって足しげく通って探すからこそ、そこに感動があるんだよね。いまどきのYoutubeでチョチョっと検索して聴いてるヤツらに、この感動はわからない」って、その感動こそが貴重なものって感じで話される。

それも一つの考えだから「そういうのもあるかもね」って答えるけど、逆に言えば、いまどきの子と呼ばれる音楽との触れ合い方をしてる子の感覚や思いはボクらには体験できない。

彼らがボクの感動を体験できないように、彼らの感動をボクは体験できない。
一方しか体験できないのに、どちらが素敵な感動だなんてどうして言えよう。

そしてそれは世代に限った話しじゃない。
いつも一緒に過ごしてる家族の感覚ですら、同じ体験をしてきたわけじゃないから、同じようには感じられない。

けど、ボクらはそれを忘れ、それぞれの記憶(体験の束=人生)を通して目の前の人を見る。
そして、勝手にかわいそうな人にしたり、勝手にダメな人にしたり、勝手にすごい人にしてみたり・・・。

なぜ、親やパートナーといった一緒に生活してる人、関係性が深い人がラスボス(最後の大物な課題)と言われるのかといえば、エゴの投影が激しく出るから。

一緒に生活したり、長く(深く)意識する時間が多い相手ほど、同じ体験をしてきた錯覚をし、同じように感じてると錯覚をする。
それなのに「目の前のこの人は自分をわかってくれない」「自分とは異なる考えを主張してくる」となったとき、否定的な感情があふれてくる。

そんな幻想を真に受けたときの選択肢は二つ。
自分にダメ出しをするか、相手を攻撃するか(批判・否定だけでなく、説得するとか、教えるとか・・・仮に優しい言葉使いだったとしても、相手が間違っているという立ち位置であれば同じ。それも攻撃)。

けど、本当は自分にダメ出しする必要も、相手を攻撃する必要もない。
だって、どっちも間違いでも正解でもないから。

とはいっても、ボクもそうなんだけど、それを頭で理解するってのはなかなかできない。
ストーリーの中で「これが正しい(または「どちらが正しい?」)」って考えてる頭を使って、ストーリーの外を見ようとしてるんだから・・・これはもう靴紐を引っ張って自分を持ち上げようとするのに等しい。

だからそんなとき、見えない存在にゆだねる(=赦し=祈り)。
それはホ・オポノポノでも、南無阿弥陀仏でも、ホーリー・スピリット(聖霊)でもなんでもいい。

そんな風に過ごしていくうち、意識の向きが変わっていき、理解でなく、体験としてわかったりする(むしろ、この投稿を読んだだけで「なるほど!わかった!!」って人は要注意。ボクもよくやってたからわかるけど💦)。

まあ・・・まずはわかってなかったことをわかる(認める)。
ボクが昔お世話になった心理学の先生が「学べば学ぶほど、わかっていない(わかっていなかった)ことがわかる」って言ってたけど、今なら「なるほどなぁ」って思います😊

まあ、これもそう深刻にやるのでなく、「わかってないだけかもね~」と、ゆとりを作るためくらいな感じでやっていただけると幸いです。

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