大学入試から「勝手に」読み取るメッセージ ー 京都大学2007年 ー

東大と京大は理系であっても、記述式の国語が課せられます。
これは、論文を書いたり読んだりする研究者には必要な能力ですし、官僚になれば文書作成能力などが必須の能力だからです。
さて、今回は京都大学の問題を採り上げます。
まず、「知」の第一線にいる自分たちにも矛先を向けているような内容を敢えて扱っています。
 

価値観の違う物・人をきちんと評価しようと向き合っていますか?

と、「活字離れ」を例に挙げて、大人たちに問い掛けているような文章です。

「これをこう読め」と活字なるものに命令されることに馴れてしまった活字人間は、その「どう読み取ってもいいよ」と言っている視覚表現の読み取りが下手だった。まるで「役所の書式に合致していないのでこれは受け付けることができません」と言う頑なな役人のように、自分たちとは系統の違う文化の読み取りを、活字文化は拒絶し続けて来た。

「拒絶し続けて」と「継続」を表しているのが興味深い点でもあると感じます。さらに、メディアリテラシーまで問おうとまでしています。メディアで取り上げられる「若者の活字離れ」と言う「不正確な」言葉に対しての筆者の思いを感じます。

「今の若者は、私達が読んだような思想書は読まずに、別の思想書を読んでいる」と、それだけのことであった。

しかし、なぜ、活字を読むことが「良い」というような風潮があるのでしょうか?
そんな根源的な質問が思い浮かぶのは私だけでしょうか。
例えば、「テレビを観ること」が趣味に書かれていたら、どこかネガティブに聞こえるのは私だけでしょうか。一方で、「映画鑑賞」ならニュートラルにしか聞こえません。
「Youtube」鑑賞なら?
アニメ鑑賞なら?
どうでしょうか。
映画館でのアニメ鑑賞を、「映画鑑賞」と書かれていたらニュートラルな感じのままです。スマホで読書していても、世間的には、「スマホ依存」と言われてしまいます。これが本を手に持って、読書をしていれば「読書家」とポジティブに捉えられます。
知らず知らずのうちに、使われた「単語」に勝手に左右されていませんか、と問われている気がします。
これらのことを認識すると同時に、その上で「下記のことが、これからのグローバル社会において重要ですよ」と心構えを伝えられています。

偏見のない人間は、未知の人間であっても、「この自分の目の前にいる人間もやはり人間なのだから、必ずコミュニケーションを成り立たせる道はあるはずだ」と考えるものだ。人は、現実生活の中で、無意識の内に自分とは異質な異文化 ー 即ち、“他者”との接点を見出そうとしているものだ。

比喩的表現ですが、この文章も考えさせられる箇所です。

さびれてしまったことを理解しない閉鎖的なムラの住人達は、ただ「寂しくなった」という愚痴ばかりを繰り返して、そんな愚痴が、人をそのムラから追い払う元凶の1つであることに気づかない。

1994年3月に発表された- 橋本 治「浮上せよと活字は言う」からです。
なぜ2007年という「スマホ」がまだ登場していない時に、この文章が採用されたのでしょうか。非常に短い文章ですが、何度も味わうべき部分だと思います。

#東大京大
#京大国語

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