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一番遠くにあるものを手にしたくなる

人は自分と一番遠くにあるものを手にしたくてしょうがないんじゃないかって思う.一番恋い焦がれる存在はいつだって手の届かないところにあるのだ.

僕らは常に完璧なものではなく、欠けた存在であり、だからこそ欠けた部分を補うために近寄り、触れて、丸になろうとする。

丸いものは美しい。だから満月が好きだ。丸は潜在的に完全を想起させる。

僕らの魂は欠けていて、欠けたもの同士がくっつくことで丸に限りなく近づく。僕らは潜在的に完全になろうとしたく、そうやって近くに自分の欠けたものを置いておきたくなる。

「自分の好きなもの」は実は自分の持っていないものなんじゃないだろうか。生活していく上でエントロピーの増大により無造作に作り上げられていく部屋の散らかりではなく、それを自分の美的感覚に基づいて整理していくその整理の仕方は、恐らく理想であり、自分ではない。

少なくとも僕自身は邪悪な存在だと認知していて、だからこそ理性と知性により邪悪を根幹から封印して綺麗でいたいと思っている。
理想的な存在の答えは世の中に沢山出回っており、それを適切にこなしていくと理想的な存在になれる世の中である。

「自分に嘘はつくな」という言葉があるけれど、本当の自分をしっかりと制御しないと、この世の中では僕は完全に不適合者だと思う。あまりに加害的であり、簡単に人を悲しませたり苦しませたりすることができる。適切に相手の嫌な言葉を選び取って伝えることができる。それをしないのは「それをしないことが常識であり優しさだから」という知性を持っているからだ。

本質的な優しさを持っている人と僕は根本的に異なる。そういう人に僕はとても憧れる。僕の優しさは作られた優しさだ。だから「優しいね」と言われることに違和感がある、その一方で「ちゃんと優しくできている」という安心感もある。ただ「優しくできている」という時点で優しくないのだ。それは「優しい人がする行動」を理解しており、それになれているかどうかの答え合わせだから。僕は答え合わせが得意で、嘘つきなのだ。

たまに人と話していていっぱいになってしまい泣いてしまうことがあるけれど、なぜ自分が泣いているのかまるでわからない。感情が欠如していることを流石に理解して驚く。こんなに壊れているとは思わなかった。
だからこそ自分の感情に正直に泣いたり笑ったり出来る人は素敵だと思う。

もはや人間ではなくて、「人間はこういう時にこうする」という知性を得て、それを実行している感覚まである。それがないと僕は邪悪になってしまう。恐らく簡単に人を傷つけてしまうだろう。「Aの場合Bであることが理想的だ」ということがわかっているのでそれを出力しているようなものだ。機械と等しい。ただその機械を起動させないと根本的な優しさが乏しいので……

と書いてみたが、この機械を起動させなかった場合自分が本当に邪悪な行動をするかというと恐らくそうでは無い。そこには強烈な理性があるからだ。「Aの場合Bはやってはいけない」と知っていてそれを実行しないことが善であるとき、「でもBをしたい」と思うことは悪なのだろうか。よくわからなくなってきた。

結局のところ根本的に僕は欠けていて、本質は邪悪だと思っているからこそ、光とか美しさとかを求めてなかったしまうんじゃないかなと思っている。手の届かないものはいつだって美しく見えてしまい、近づきたくなるんだろう。
君はどうですか?

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