見出し画像

教誨師を観た

※死の表現が入ります.苦手な方は進めないでください.


本当に少し前にこういうツイートをした.

https://twitter.com/_efuhi_/status/1410176000994930690?s=20

少し考えを改めた.


「教誨師」という映画を観た.教誨とは,教えさとすことを言うらしい.この映画は死刑囚と牧師の対話で話が進んでいく.

さとすと書いたが,実際は話をしていく.つまり対話だ.死刑囚を前に,牧師が対話をする.決して強制力のない対話.

印象的だったシーンはいくつもあるが,高宮という若い死刑囚が,最期に死を目の前にして震えているシーンを目の当たりにして,「やはり死を前にすると人は恐怖するのだろうか」と思うようになった.

僕もああは書いたが実は現実的に考えられていないだけなのかもしれない.

高宮は死刑執行の直前に,汗だくになり,怯えていた.震えて椅子から立ち上がるのも困難なようだった.対話の段階では一切そのような様子は見せなかった.最期,教誨師は「もう,悔い改めるとか神がどうのこうのとか,どうでもいいじゃないですか,私あなたのそばにいますよ.あなたもどうか,私や彼らと,あなたが殺めてしまった人々一人ひとりと,寄り添ってもらえませんか」と話している.

死というものそれ自体はすべての生物に等しく与えられるもので,死刑というのは,それを人工的に終了させる.そこには確かに恐怖があるのだろう.単純だが,それだけだが,かんたんに命を尽きさせてはいけないなと思ってしまった.消されてしまった命があって,その人がこれから発するはずだった言葉があって,それが僕の耳に届くかもしれなかったから.

僕は,この生命が尽きるその瞬間までは生き続けようと思った,この世に生まれてしまったから.だから,死神が「明日死ぬよ」と言いに来たら,ごめんまだ死ねないんだ.だって生きてしまったから,と突っ返すことにする.明日することがなかったとしても.

だから前言撤回する.

よろしければサポートお願い致します.創作活動は完全自主制作のため,こういった優しさは本当に嬉しいですし,これによって長く続けられます.いただいたサポートは作品作りに活用いたします.よろしくおねがいいたします.