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水源⑤

第四話】こちら

その連絡が入ってから僕が部屋についた時には,ベッドには人の重さだけが静かに佇んでいた.

「遅かった.」

誰かが手を引っ張ってしまったんだ.僕は手を離してしまったのか.カーテンが揺れている.買っていたたい焼きはもう冷めきっていた.いつからか君はこの部屋に居すぎていて,病気だという事実すらも時間が覆いかぶさっていて見えづらくなっていた.いや,見ないようにしていたというべきか.廊下が少し騒がしい.僕は長椅子に座りただ待つことしかできなかった.


おそらく一時間程度が経って彼女は出てきた.

「心配かけたね.」

と微笑んでいたので僕は安堵した.

「死ぬんじゃないかと思った.」

「人はいつか死ぬもの.」と君は笑う.

そうだけど.そうなんだけどさ.そうじゃないだろ.


今日は終わりまでいたい.看護師にお願いして,少しだけ面会時間を伸ばしてもらった.話せなかった今日の街の話をしようと思ったのだ.時間は七時を回っていた.カーテンが夜風に揺れている.
「海の匂いがするね.」
僕らにとって,海は特別なものになっていた.冷めてしまったたい焼きは,君は食べられないらしい.点滴を打っているからだ.
「君のために買ってきたのに,食べられないんじゃ,海に返すしかないね.」
と,冗談のつもりで言ってみた.いつものとおり返してくるだろうと思ったからだ.でも君は「ごめんね.」なんて言うから,その後何も言えなくなってしまった.本当に海に投げ捨ててしまえばよかったのか.君が悪いわけじゃないのに.

海の向こうにも明かりが見える.あそこにも人が住んでいる.そういう当たり前のことが,近くを見すぎてしまうと見えなくなってしまう.自分以外の全てのものに等しく時間は流れていて,その時間の流れの中で何をするかを選ぶことが人生なんだろう.今僕は彼女といることを選択している.あの灯りの中では,別の人が別の選択をしている.僕らはいつの間にか自分以外のものに時間が流れていることを忘れがちだ.時間は等しく流れていて,その中で生命が死という選択をした時,その命が終わる.大きな時間の流れの中の選択であり,この身自体に時間があるわけではないような気がしている.僕が死んでも時間は流れていく.彼女が死んでも時間は流れていく.残された人は,その時間の中で居なくなったものに目を向けて生きていく.もし22g程度の魂ってものがあるなら,僕が死んだらさっきのたい焼きに乗り移って,君に食べられてしまいたい.


私は,私でありたいです.運命というものが生まれた瞬間からあるのであれば,私がこの時間の中で多くの選択をしてきたと思っていたことは,全て決められた終わりに向かうための歯車でしかなかったことになってしまいます.私は自分の足で歩いて今日まで生きてきたつもりです.自分の意思で好きな場所へ行き,好きな人を選び,今日を生きているつもりです.この全てももし決められたものであるならば,考えることができるこの脳は,この意思は,なんのためのものなのでしょうか.全部運命というものの手のひらの上の話だったのでしょうか.であるならば,私は少しでも抗いたいです.少しでもこの運命というものに噛み付いて,絶対に泣いてなんかやらないです.最期まで笑ってやるのです.私はわたしの意思で生きてやるのです.君が泣きそうな顔をしていたから,それがどうしても弱々しくて,つい笑ってしまったのは内緒にしておきます.君が帰った後のこの部屋は,そんなに多くは話していないから音なんて少ないのに,寂しいものです.だから,運命に見つからないように,枕に顔をうずめて少しだけ泣いてやるのです.明日も生きるために.

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