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ある人の手記(短編)

いわゆる都内大手企業に就職して働いてきたが,ふとした瞬間に緊張の糸が途切れたというか,電池が切れたと言うか,「なんでこんなことを繰り返しているんだろう」という気になって,勢いで退職した.転職先が決まっていたわけではないけど,まあなんとかなるだろう.人生一度切りだし,ダメでもともと,チャレンジ精神だ.退職したことで羽が生えたかのように体は軽くなり,なんにでもなれる気がした.
「とりあえず引っ越そう.」
有限だが貯金はかなりある.が,無駄遣いしてしまったら恐らくすぐに底を尽きてしまうのは言うまでもないので,高層マンションからアパートへと引っ越すことを決めた.

決断をすると早いもので,なぜか私は遠足の前日のようにワクワクした気分になり,不動産屋へ直行し,家賃4万5千円の一人暮らしのアパートを探し始めた.そしてあのまま勤め続けていたらたどり着くことは多分なかったであろう初めての土地に腰を下ろすことになった.
「わたしは〜わたしの世界の〜パイオニア〜.」
と陽気にどこかで聞いたメロディを繋ぎ合わせたような曲を歌ってしまうくらい私は浮かれていた.

引越し先のアパートは2階建ての木造建築で,私は2階の角部屋を選んだ.都内とは違い,ここは低層の家々が並んでおり2階からでも十分遠くを見渡すことができる.また,30分くらい歩けば砂浜があり,海風を感じることもできる.「洗濯物は海の匂いに染まりそうだな.」と良いのか悪いのかわからない気持ちになった.言葉だけ見ればファンタジー的だけれど,実際海の匂いになれるまではかなり時間がかかりそう...,,,

引越し業者の搬入も終え,ダンボール5個(前の家に置いてあったものの殆どは捨ててきた.その頃に捕らわれてしまいそうで嫌だったから)だけが家の真ん中に置かれた.
「ふー.ここが私の新しい城かー.」
時間はお昼を少し過ぎており,低学年の小学生の下校時間らしく子供の笑い声,というかキャッキャキャッキャという叫び声が外から聞こえてきた.
「平和だなー.さて私よ,お前はこれからどう生きていくのだ.」
まあ仕事先もきっと見つかるだろうし,最悪見つからなくてもアルバイトでほそぼそと生きていくことも悪くはないだろう.近くに精肉屋さんや小さいスーパーもあったし,なんかあったかい毎日が過ごせるはずだ.ふと家に備え付けてあるクローゼットの隙間に,何やら本のようなものが隠れていることに気づいた.
「え.清掃会社さん,これ前の家の人のものじゃないの.日記?小説?なんだろう,とりあえず見てみて不動産会社に連絡するか.」
恐る恐る隙間から取り出すと,それはあまり古くはない日記帳のようなものだとわかった.表紙には雑な字で「手記」と書いてあった.きっとこの書き味だと万年筆だろう.
「日記のこと手記って書いてるじゃん,この人.」
少し苦笑いをしながら表紙をめくった.


「焦って呼吸をしてしまっているから,口から泡が吹き出てそこら中汚れてしまった.あーあ,こんなことを繰り返しているから服が足りなくなるんだ.僕はもう毎回悲しんでは汚れた服を脱いでは新しいものに着替える作業をしている.鋭角にデザインされた建造物は,町中の人たちを見下すように乱立しており,もう息苦しくてしょうがない.何年立っても慣れない.歩き方は赤ん坊の頃に覚えたきりアップデートなんてされたことはなく,未だによちよちと歩いている.立派に歩いている人なんて居なくて,立派に歩いているように見せている人だらけだった.嘘だらけの町,全部模造品だ.くだらないね.地面から生えている草木なんて何度も踏み潰してきたし,それに痛みを感じたこともない人だらけだ.同じ生物だぞ?どうなってるんだこの世は.ああ,嘆かわしや地球さん,あなたが生み出した生物たちは,いつの間にか生みの親を食い殺そうとしてますぞ.」


この手記の持ち主はさぞかし生きにくい人だったんだろう,とはじめの数行を読んだだけでわかった.私は興味本位で読み進めてしまった.


「毎日がとある朝で,僕はそのとある朝の一日を今日も生きるのであった.毎日平然と続く時間の中で,少しでも違いを見つけたく,僕は手記を書くことにした.手記とは「自分の体験やそれに基づく感想を自分で文章に書いたもの」のことだ.簡単なメモ書きから日記に近いものだろう.僕はそう解釈した.
もう何年もこの町で生きていて,もう昨日のことさえものすごい速さで遠ざかっていく.その間に泣いたり笑ったり怒ったりしているのに,一個も覚えていないなんてこともざらだ.そこにあるのは「泣いた・笑った・怒った」という単純な事象の記憶に過ぎなく,「誰とどこで」まで覚えていることなんてほとんどない.3日前に食べた晩ごはんなんだっけなー,カレーだっけな.そのレベル.なので僕はここに記録として残していこうという気になったわけである.もしかしたら3日坊主になってしまうかもしれないけれど,それはそれでよかろう.」


「ベッドが僕に貼り付けられているせいで,僕はここから起き上がることができない.6時半.もう目覚ましをつけなくてもこの時間に目が覚めるようになってしまった.体の記憶とは恐ろしいもので,祝日である今日も同じ時間に目覚めてしまった.気分は最悪.体は睡眠を取ろうとしているのに,目だけ覚めてしまったから,さてどうしよう.とりあえず目をつむり眼球をぐるりぐるりと2回転させた.こうすると目の周りの筋肉に血液が周って,少しずつ体が目覚めてくる.次は足をもぞもぞと左右に揺らし,徐々に体を温めていく.二度寝しようかとも思ったけれど,外はとてつもなく良い天気で,どうせなら起きようと思った.二度寝したらおそらく夕方近くまで起きれないから,この際頑張る次第である.
実は数日前にこの家に越してきた。僕には都会は向いてなく、このこじんまりとした家と時間の流れが異常に遅く感じるこの町が合っていると感じる.鳥の鳴き声が聞こえて,「あーこれが鶏だったら,少しは朝も楽しくなるのかな.コケコッコーってさ.」と独り言を言いながら,僕はやっとのことで体をベッドから引き離した.とりあえず白湯を沸かす.」


人の日記っていうのは面白いもので,自分以外の人生という点で言えば小説って言えるだろう.それに,誰かの秘密を覗き見ているようでなんだか悪いことをしている気持ちにもなる.でも今はここは私の城.私の城に勝手に置いてあるこの日記が悪い.この人今きっと日記を失くしたことで恐怖しているに違いない.
「にしし.」
と悪巧みしている子供のような笑い方をしてしまい少し反省した.反省はしたが,読み進めることはやめないぞばかやろー,わはは.

「ポットに水をコップ一杯より少し多いくらいの量を入れて火にかける.朝は白湯がいいって,いつかテレビでやっていたのを今も続けている.結果は良好,まだ生きられている.
白湯を沸かしている間に,僕は雑にカーテンを開け放ち,朝の外の景色を眺めた.別に高層階でもないけれど,見晴らしは悪くはない僕の部屋は結構気に入っている.早起きしたからか気分がよく,「ついでにベランダまで出てみるか」とサンダルに右足から入れ外に出た.朝はまだそこまで暖かくはなかったが,この時間でも人通りはあって,道路を歩いている人に思わず「おーい!ご苦労さまです!」なんて伝えたくなってしまう.春のせい?陽気な僕は傍から見たらただの変人だが,もう一切合切春のせいにしてしまおう.その方が生きやすい.フェンスには鳥の糞が落ちていた.
ポットが大声を出して泣き出したのですぐに部屋に戻り,コップに入れて飲んだ.
「あつっ!」
もう何回やっても学ばない.また火傷した.少しずつふぅふぅと息を吹きかけてゆっくりと体に熱を入れていく.胃の方に流れていき,体が輪郭を捉えていく感覚がする.
昔好きだった女の子にもらったイヤフォンをスマートフォンにぶっ刺し,サブスクから適当に音楽を拾い集める.以前より音楽が身近になったが,同時に遠くなった.CDを開封するときのドキドキ感ってみんな言ってるけど,僕もそれと一緒.それでも何度も苦しいときにこのイヤフォンで音楽を聞き続けた.もらったイヤフォンはそんな高いものでもなかったがなかなか壊れず,壊れてないから新しいものを買う気にもなれず使い続けている.別に音質が特段言い訳でもないけど,耳に環境音以外の音が流れているのが良い.」

「この人,私と同じで都内から越してきたんだ…なんか境遇似てて親近感覚えちゃうわ.」

今はもう夕方すぎになってしまっているけれど,私もこの日記の人と同じようにベランダから外に身を乗り出して,遠くの景色へ視線をずらした.
「確かに高層階ではないけれど,悪くはない景色......」
引っ越す前に事前情報を色々と仕入れた上で引っ越しをしているから当然っちゃ当然なんだが,この日記の人と同じように見えているのかなと思うと不思議と安心感があった.海沿いは西日に照らされてキラキラしていた.
「不安がなかったといえば嘘になるけど,なんか大丈夫な気がする.」
西日の効果か,日記の効果か.わからないけれどとりあえず勤めていた頃の機械的な日常とは違っているという事実だけが私を救っている.



この町に住みだして意外とどうとでもなるな,という印象をうける.この町の人たちは知らないよそ者に対しても優しい感じがする.挨拶とか普段しなかったから.自分ひとりの世界を成り立たせるための生活は悪いものではなく,空っぽの私の身体という容器に少しずつ日常が溜まっていく感覚がしていた.手記は暇なときに元あったクローゼットの隙間からひっぱりだしてパラパラめくり,以前この部屋に住んでいた人物のことを想像していた.いつの間にか私はこの手記にかかれている男の人(と思われる人物.だって僕って書いてあるし)に思いを馳せることが多くなっていた.

ある日の休日,私はまたクローゼットの隙間から手記と書かれた本を引っ張り出してパラパラめくっていると,最後の方のページに目が行った.

「実はまた引っ越さないといけなくなった。この町ともおさらばというわけだ。でも僕にとってこの町は前に住んでいた所より100倍良いし、思い出も沢山ある。僕は音楽が好きで歌うことが好きで,いつの間にか自分の伝えたいことができてしまって,ギターを買っていた.若かった頃はそれこそ「ロックンロールだぜ!」って燃えていたけれど,実際は何かになりたかったんだろうな.今僕は何かになっているのかってその頃の僕に聞かれたら,苦笑いをしてしまうけど.全世界に伝えたいことなんてなくてさ,本当はある一人に伝えたいことだったんだろう.今も僕はギターを抱えてコードを鳴らして歌っている.こういう状況だから外で歌うこと自体憚れるけれど,歌う場を作っている人たちには感謝しかない.◯月✕日18時から,僕は◯◯というところで歌うことになった.人前で歌うなんて恥ずかしい感じもするけれど,歌っていればなんとなく救われる気もしたり,嫌なことも「嫌なことだったな」なんて消化できたり,とにかく歌はすごいんだ.誰かに届くかもわからないし,というか届かんだろって思っているけど,それはそれで良しとしよう.言葉に音を乗せて空間を泳いでいくってすごいことだ.頑張れ僕.」

「あれ,今日何日だっけ?」
スマートフォンのカレンダーを立ち上げると,ちょうど◯月✕日だった.開演まであと1時間.行ってみる?でも行ってどうする?いや,何事もチャレンジ.しかもこの手記を持ち主に返せるチャンスだ.行くしか無い.ここから◯◯までちょうど1時間15分.走れば間に合う.急いでよそ行きの服を準備し私は部屋から飛び出した.鉄製の雨が降ると滑りやすくなる階段を思い切り音を鳴らしながら駆け下り(アパートの皆様すみませぬ),最寄りの駅まで走り抜けた.

「絶対間に合わせて,この手記を返してやろう!これって日記でしょって少しからかって,あの町の良いところを少し話したいし!何なら友だちになれるかな!どうだろう!でも行ってみないとわかんないし!今日はいい天気で良かった!」

心拍数と足音はこの町にリズムを奏でていた.

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