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6.結論

6.結論

 当たり前のことであるが、人間は誰ひとりとして、真に「客観的な事実」をみることはできない。われわれは、自分の目を、頭を、感覚をとおしてしか「世界」を認識できず、それは、(無色透明ではない)メガネを通してしか「世界」をみることができない、と表現できよう。そういう意味で、「世界」というのは恣意的なものである。解釈も、意味付けも、それはわれわれ次第でいかようにもなる。いわば、茶番劇だ。意味的世界を舞台に、われわれは演じ続けるしかない。生まれてこのかた信じてやまない「世界」は、あてにならないものだと言わざるを得ないのだ。
 ところで、バトラーによれば、「ジェンダーの現実性[49]」は「持続した社会的パフォーマンス[49]」をつうじてつくられるものである。そこで、このような発想から、あらためてこれまでの分析を振り返りたい。

6– 1.パフォーマンスとしての「市民的勇気」

 まずは、四章で全体主義への対抗として提示した「Zivilcourage(市民的勇気)」を、パフォーマンスとして捉え検討する。全体主義の文脈で、「Zivilcourage(市民的勇気)」をパフォーマンスするとは、どういうことなのか。バトラーの議論を踏まえれば、行為をつうじて「Zivilcourage(市民的勇気)」を体現していくことで、その現実性やアイデンティティが構築される。ここでいう現実性とは、「勇気」ある行動で構築していく、全体主義の流れとは異なるあらたな事実である。そうした行為は、全体主義のなかで、まさにその運動の和を乱すような攪乱として機能するのではないか。倫理によるものではなく、攪乱可能な行為としての「Zivilcourage(市民的勇気)」の存在を指摘しなければならない。

6– 2.パロディとしての「らしさ」

 ジェンダーに際していえば、「らしさ」の付与は逆手に取ることができる。扮装することで、女性の「女性らしさ」や男性の「男性らしさ」を攪乱していけるのだ。
 筆者は(便宜上)、女性誌を真似ただけの劣化レプリカのような人々を工場生産系女子(よくちがいのわからない若手俳優のような、工場生産系男子もいるのかもしれない)と呼んでいるのだが、あれもみな同じような装いをすることで、「カワイイはつくれる」、もとい「カワイイは再演できる」のかもしれない。再演をつうじて、カワイイ自分というアイデンティティを構築し続けているのである。
 一方で、筆者のごとく、「男装」なり「女装」をとおした攪乱も可能なのであろう。首尾一貫した「らしさ」とはちがった「らしさ」を演じることで、そもそもその「らしさ」が社会的に構築されたものでしかないという事実を示すことができるのだ。

6– 3.二重の全体主義性

 本稿では、「女社会」の実例を挙げながら、その排除の構造や全体主義性を分析したうえで、バトラーの議論をふまえ検討してきた。すると、そこに奇妙な構造があることに気がつく。
 「女社会」は排除の構造を持ち得るし、それは全体主義性を帯びるものであるが、その「女社会」の要員を成すためには(形式的にであれ何であれ)「女性」であることが要求される。あるいは、「女性」でないことが「女社会」を築かない要件になるのかもしれない。ということは、「明確に区分されたジェンダーは、個人を強制的な文化の内部で『人間化する』もののひとつ[53]」であるという記述のとおり、ひとは、否が応でも「性」に絡めとられてしまうことになるわけで、それこそ全体主義的なのではないだろうか。社会において、常々なんらかのジェンダーであることを要求されるが、たとえそれが攪乱可能であったとしても、内的強制として働かないとはいえない。つまるところ、「女社会」は二重の全体主義性を持つものなのではないのか、というのが筆者の主張である。「パロディ」をつうじて再演される「らしさ」はたしかにジェンダーの可能性をひらくものの、先に「それが『女性的』であるとか『男性的』であるという枠組みを与えられず存在できる領域は、ほとんどないだろう」と述べたように、「女」であるとか「男」であるとか決定したがる(そうして短絡的に「性」についての答えを持ちたがる)社会があることは否定できず、その全体主義性を黙認すべきではないと考えるのだ。

6– 4.茶番の再演

 おそらく、本稿の土台にあるのは「所在のなさ」である。筆者が人生を茶番だと思っているのは事実で、最高にイカれている(「常軌を逸している」とでも表現すべきなのだろうが)と感じるのも否めない。だが、その常軌を逸した「世界」は、「女社会」とジェンダーについて全体主義的視座を与えてくれた。どこかの研究会を揶揄するわけではないが、ただレジュメの担当をふたり決めるのに、ひとりは「男性」だからもうひとりは「女性」にすればいいのではないかなど、冗談にしても、よく言えたものである。全体主義的な場で全体主義を学ぶというのも皮肉なことだ(それ故、筆者は人生を茶番だと捉えているのである)。
 それでもきっと、われわれは演じ続けなければならない。社会的、文化的な意味を再構築しながら、それらを攪乱しながら、自らの立つ意味的世界で茶番劇に興じるしかないのだ。そして、それはあらたな可能性として機能することになる。なぜなら、それが何であろうが、われわれは自分の意味的世界を脱することはできないからだ。本当に文字通り客観的に存在する世界をみることはできない。そうであるのなら、そのなかで自らの納得のいく意味付けはできるはずだ。いや、舞台を使いこなしてこそパフォーマンスなのだろう。

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[49]ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱』、青土社、二四八頁。
[53]同上、二四五頁。

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