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「私はドシロウト」という誇り。人生の可処分9万時間をめいっぱい使いきる

人生の時間を、おおよそ、計算しよう。

人生の時間はほぼ平等だ、とここでは便宜上仮定しよう。
(もちろん現実には異なるが今回はそれを論じない)
皆、一生涯という限られた時間。
仮に、自分の意思で何かを学べる年齢を80年間としよう。
(幼少期、高齢期は、今回は含まない。)
365×80=29200日。

次は、その毎日の中で、自分の自由選択によって与えられる時間。
可処分時間、とでも言おうか。

これは自分の意思で選んだ職業とか進学準備とかも含めよう。
厳密に弾き出そうとすると非常に複雑なので、簡略的に概算をする。
まあ、ここではざっと、1日あたり3時間として計算しよう。
3×(365×80)=87600時間

まあざっくり言って

自分の人生の可処分時間は、ざっと9万時間

ということになる。
もちろん勝手な定義での、ざっくりとした計算だが。
まあとりあえず、ここでは9万としておこう。


さて、次。
極めて単純で粗雑な言い方をしてしまうと。

全人生の持ち時間とは、この9万時間をどこに分配するか。

ということに過ぎない。
この9万時間を、人々は、自分の意思あるいは偶然によって、使い道を充てる。
そうして得られた経験量が、様々な分野で、人それぞれにある。
その、一つの分野に注目した際のその経験量が、いわゆる職能であったり、特技であったり、技量であったり、というふうに人の目に映るわけだ。

その時間を、ピアノだけに3万時間、投じてきた人生。
1000時間、投じてきた人生。
その二者に、技量としての差が出てくるのは、当然だろう。

まあ才能とか他の諸要因もあるが、それらの誤差はさておきだ。

そしてもちろん、人生、一つのことを一生涯続けられるとは限らない。
幼少期に野球に打ち込んだからって、一生野球をやる人は少ない。
ピアノも然り。
描画も然りだ。
途中の方向転換、あるいは並行なんてことは、誰の人生にだって普通にあることだ。
人生にはさまざま事情がある。
それをとやかくは言わない。
ただ、同じことを繰り返すが、経験時間と技量にある程度の比例関係があるとするならば、そりゃあ、「たくさんやってきた人」には、敵わないというわけだ。


だけど、ここが大事だ。

それって、自分が「努力不足だった」「未熟だ」「かつて一度あきらめた」

とかって、いちいち卑屈になることなのだろうか?

どうも日本人の考え方の癖として、「一つのことを徹底してやり切らない人間は半端で未熟な、劣った人間なんだ」と考えてしまうクセがある。
勤続年数だ、年功序列だとかね。
そういうものがカタチとして残ってること自体、なんだかんだで、結局日本人はそういうのが好きなんだ。純粋一途で脇目も振らない、ってのがね。

でも、人間って、いろんな経験をせざるを得ない。
不本意なことさえも。
そうしていかねば、人生なんて、現実、成り立たない。

だったら、
「40歳から始めました」
「50歳で高校に通い直しました」
「60歳から絵を描き始めました」
それって、自然なこと。
少なくとも「今さら」なんて馬鹿にされることではない。

そして、実は、馬鹿にしている人間なんて、いそうで、いない。

卑屈の原因とは何か。
実は、自分自身ではないのか。

ということだ。

自分で勝手に劣等感を持って、「今さら」とか「若い人に混じって」とか「未練がましい」と恥ずかしがってるだけの話ではなかろうか。

「己の卑屈の原因は自分自身。

敵は、己心にある。
己心のあきらめを、卑屈を、叩き出せ。」

ということだ。

未熟で結構じゃないか。今さらで結構じゃないか。
例えば今70歳であったって、やりたいことはあと10年はやれる。
10年、何かに専心してやれば、
3時間×365日×10年=10950時間。
運転技術だってなんだって、1万時間の経験って、相当なものだよ。
だったら、スタートの年齢なんか関係ないでしょう、ってこと。


そして、1万時間の途中過程は、もしかしたら大半の時間を「ドシロウト」のまんま過ごすのかもしれない。
でも、目指すべきものが輝いていれば、自分にとって希望が持てるものであれば、それは大変有意義なものではなかろうか。

「自分がドシロウトであることを、むしろ誇れ」

ということだ。
さらに言うならば、

ドシロウトであるということは、

伸びしろの可能性をも、同時に秘めている。

ということだ。

30点の点数しか取れない人が、80点まで伸ばすのは、比較的簡単だ。
しかし、95点の人が100点を目指すことは、ある意味、難しかったりする。
どんな道も、極めれば極めるほど、その成果は、多くの人には見えにくい。
ドシロウトだからこそ、伸びる楽しさが目に見えて分かりやすく実感できる。

ドシロウトであることを言い訳に、何も挑戦しないのは、単純に、自分がつまらない。
何事であれ、限りなく成長できること。
それを、自分の身で、事実として実感できること。
それこそが、人間らしく生きる醍醐味であり、希望、喜びであるように思う。

2024.8.28

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