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<日曜礼拝> 2024年3月17日

その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞くがよい」。

マタイによる福音書 13章1~9節(口語訳)

御言葉を聞くことを急かすようなことはあってはならない。イエスは話をする際、ほとんど座っていた。
二人の人が話をしていて、片方が座っていて、もう片方が立っている状況を想像してみてください。座っている方と立っている方、どっちが急いでいるように見えますか? 「腰を据えて話す」という言い方があるぐらいです。人の話を落ち着いて聞く時は座ってするのが普通ではないでしょうか。
上記で述べた聖句で注目してほしい最初のポイントはイエスは船に座って話をしていながらも、群衆は立ってその話を聞いていたということです。
私たちは、神に何かを願ったり求めたりする際、つい神からの返答を急かしていないでしょうか?腰を据えて神がすることを待っていればいいものを、人間はつい立ったまま、落ち着きなく待ってはいないでしょうか? 速さや瞬間的なものを求めるのを前提としている現代の社会では物事を腰を据えて待つということは珍しくなってきているのではないでしょうか?「石の上にも三年」「果報は寝て待て」などに良い印象をもたない人も増えてきているのではないでしょうか?

聖句で注目してほしい二つ目のポイントは、たとえ話を話しているのが海辺でありながら、使ったたとえ話は農作業に関連するものであると言うことです。しかも聞いていた群集はおそらくほとんどが漁師であるにも関わらず、あえて農作業に関連するたとえ話を用いたのはなぜだろうと疑問が浮かぶ。おそらくその理由は上記と関連している。ようは、座って(落ち着いて)話を聞けば理解できるようなものだったと言うことだ。

さて、聖句で述べた内容に目を向けてみよう。

この聖句の内容でまず気づかせるのは、物事の全てが同じ結果にならないと言うことです。 種は、4か所にまかれています。ですがすべてで芽生えたとは言えなかった。聖書では似たような意味合いとして受け取れるか所がいくつかある(「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」マタイ22章14節、「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」マタイ7章14節)

蒔かれた種そのものは、全て良いものではあった。この種は自分たちにも例えられる。キリスト教的には人間は原罪をもって生まれてくるため厳密に全員が"良い人"とは言えませんが、"良い人"になる可能性はある。しかし、蒔かれた場所によって結果が変わるが人間である。 というのがよくこの聖句を用いて言われるような内容です。間違えではないですが、今回は少し別のベクトルでこの聖句を見てみよう。

7節で「ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。」と書かれていて、ここで出てくる"いばら"を人生に起こる困難なことや苦しいことや悲しいことを思い浮かべるのは簡単ではある。しかし、それぞれの福音書を見てみますと「世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲」や「生活の心づかいや富や快楽」が"いばら"であると書かれています。
すなわち"いばら"とは、個人的な困難のことではなくは世の中が私たち人間を惑わし種(この種はキリスト教的には神が語る言葉、すなわち聖書の御言葉ですね)の成長を妨げる物だと言えます。

でも、こういった話をする際に、個人的なことをを抜きにして話すのは難しい。

パウロはテモテにあてた手紙(第2テモテへの手紙)には、世の終わりの時代は「苦難の時代」になると言った。ここで理解しないといけないのは「苦難の人生」ではなく「苦難の時代」であると言うことでその結果、”避けるべきような人々”が出てくるという。第2テモテへの手紙3章の2節から5節に”避けるべきような人々”がどういう人たちなのかが色々と記載されているが、あえてここでは2タイプの人たちをピックアップすると「神よりも快楽を愛する者」「信心深い様子をしながらその実を捨てる者」です。

しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。

第2テモテへの手紙3章1~5節(口語訳)

「神よりも快楽を愛する者」というのは、勘違いしてはいけないのですが、このタイプの人は神の敵というわけではなく神よりも快楽を選ぶと言うことです。「信心深い様子をしながらその実を捨てる者」も聖書で悪い例が何人かいますが、見てくれはいいけど実は裏で・・・というような人たちです。

一つ理解しないといけないのですが、神との人間の関係性のスタンスは2種類あり、神のみにする(十戒で、他の神を崇めないがこれに当てはまる)のと神を他よりも一番にする(イエスの教えで、隣人も愛するが第一に神を愛するのがこれに当てはまる)

結論として。

この困難な時代に対して私たちを強くするのに十分すぎるほどに、私たちには神の愛があり、イエスの恵みがあり、聖霊の交わりがある。本当はこれらで十分であるはずであるが、それでも"いばら"の棘は私たちの心を刺そうとしてくる。だからこそ、私たちは自分自身を深く見つめ、清め、心の中にある"いばら"の棘を取り除き、良い種が実を結ぶようにしなければならないと言わせてもらい、〆とさせていただきます。

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