似非ブラジル人が出来上がるまで

さて、

自分の成り立ちについて考えたり、誰かに話したりするということは意外に少ないのでは?と思う。

そこでいい機会なのでここに書いてみる。

まずは生まれてくるところからですかね。

自分は、1991年1月中旬にブラジルのパラナ州にあるロンドリーナ市(注1)で生まれた。
ブラジルは南半球のため1月は暑い。時期的には年末年始の夏休みでカーニバルも近いことも合わさって、ブラジル人が一番楽しみにしている時期だ。
当時、父方の祖母は病院で手術室看護師(注2)をしていたこともあり帝王切開をする母親の手術に同伴した。喧嘩を繰り返し、くっついたり離れたりを繰り返す両親だったため祖母の中では本当に自分ところの息子が父親か気になっていたと言う。
だが幸いなことに、生まれてきた自分を見るなり担当医は「あれま~、父親そっくりじゃないかい!」と声を上げ祖母の不安は一気に消えたそうだ。
元気に生まれてきたこともあり、母親が帝王切開から回復するなり退院をした。

ここで先に自分の家族について説明をしよう。
父方の祖父はイタリヤ移民の家系、祖母は日系の家系だ。当時はさすがブラジル人日系社会はブラジルに十分溶け込んでいたが一部ではまだ「日系は日系と結婚するべき」という考えをもつ家族がそこそこいた。祖母の家族もそういった考えがあったもので、祖父と祖母は若かれし頃に駆け落ちをする一歩手前まで行ったそうだ。さすがにそこまで行くと結婚は認められめでたくイタリア顔イケメンと童顔日系少女は一つになった。
母方の祖父はポルトガル移民の家系、祖母はアフリカ系の黒人家系だ。自分が生まれたころには二人は離婚していたが、写真を見る限りサンパウロ州に住んでいた祖父にはずいぶんかわいがられていたようだ。残念なのはその祖父は自分が7歳の時に亡くなってしまったためもっと関わることができなかったことだ。母方の祖母はアフリカ系黒人家系ではあるもの生まれてすぐ養子に出されイタリア系の家族に引き取られた。

御覧の通りカオスな家系図を持つ自分はイタリア系、日系、ポルトガル系、アフリカ系と色々な人種が混じっています。でもこれってブラジルだと普通です。ブラジルは世界で一番のモザイク社会、人種的多様性がある国だと言われています。
でも残念ながら、だからと言って偏見や差別がないわけじゃない。むしろ一段とそれらは強い。「みんな違ってみんないい」なんてかわいい考えはブラジルではない。むしろ「みんな違うからみんな差別する」といってもいいほどだ。だが同時にこういった社会では偏見や差別に対する耐性も強くなるもので差別をされても大して気にしないことが多い。もちろん尊厳にかかわるようなことだと大事になるが。

(注1)ブラジルの南部にあるパラナ州、その北部にある比較的大きな都市です。1930年頃にドイツ人移民と日本人移民を中心に造られたといわれています。人口は約50万人、面積は1,724.7km、国内でも有数の日系人口が多い街だと言われています。第二次世界大戦過ぎころまでは国内でも1位か2位のコーヒー生産地として有名で凄く栄えたが1980年代ごろからブラジルのコーヒー豆自体が他国との競争に負けてしまい街のコーヒー産業も衰退することになる。
(注2)手術室担当の看護師らしいです。多分正式名所は違うかもしれません。定年まで働き、仕事と家事と育児をこなしたスーパーウーマン。


今回はこれだけにしておく。
次回は生まれてから日本に来るまでのことを書こうと思う

ではでは(・ω・)ノシ


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