何も知らない幸せな幼少期

さて、ブラジルから母と日本へ来て、父と生活しだした。

バブル崩壊の影響と日本産工業製品の世界へのさらなる輸出が産業界の人手不足をさらに顕著になるなかで、入管法の改定で"日系"お呼ばれる人が日本へ出稼ぎに来る状況を作った。
父は出稼ぎで日本へ来た当初は名古屋の港区に大きな工場を構えていた三菱自動車で働くことになった。

しかしここで問題が発生する。

今でこそ多くの自治会では外国人への対応が(完全にではないももの)できるようになったが、30年前の当時はそうではなかった。
行政機関、病院、学校、職場などで通訳はおらず、ましてやポルトガル語に訳された看板やパンフレットなどはなかった。
不動産屋さんも基本的には外国人の住民を好まなかった。会社で寮や社宅を用意してくれるところもあったが、多くの場合はそうではなかった。なので多くの外国人は行政を頼り市営や県営の住宅に住むようになった。
いろいろなことを考えて、職場がある名古屋市内よりかは少し距離があるが自動車での通勤がさほど大変ではない愛知県知多郡東浦町に自分たちは住むことになった。

当時を振り返えると、
あの頃の自分は幸せだったな、って思います。

まぁ、
保育園や幼稚園に通い
日本人の友達もいましたし、団地に多くいた外国人の友達もいました。
保育園を休むことを悪いことだと思わなかった母は、たまにズル休みをさせてくれて、その時は一緒に電車に乗って名古屋に遊びに行ったりしました。(実際は母の買い物に付き合っていたこと当時の自分は気が付いてなかったんですけどねwww)
近所の行きつけの床屋さんのお姉さんたちにかわいがられて、お菓子やジュースをよくもらったし、たまにお小遣いもくれました。一回だけ1万円のお小遣いをもらった時は正直びっくりしました。

なにも知らなかったからこその幸せなんですかね。
世の中の理不尽さも、辛さも、悲しさも知らなかったからなんです。

今、大人になってたまに思い出すことがある。
それは、たぶん、初恋は保育園のころだったんだろうってこと。
同じ団地で母の友達の娘さんで、おそらく自分より一学年下だったと思う。よく夕方にお邪魔をして、母親同士がペチャクチャ話している間、その子の部屋で一緒に遊んだり、たまにお風呂に入ったり、ご飯を食べたり。大人になった今だからこそわかることだが、当時その子と一緒に居て心地いいと感じてもっと一緒に居たい、一緒に遊びたい、一緒にお話をしたい、っておもう感情はLikeではなくLoveだったんだと思う。
まぁ、でも、幼少期の恋が実ることは稀なのは言うまでもない。
この幼いながらも自分が抱いていた淡い恋心は「引越し」というものによって壊されることになる。
(風のうわさで、その子は今では家庭を持ち幸せに生活していると聞いている。まぁ、なによりである)

最初に述べたように、父は名古屋に勤めていたので、やはり通勤が大変だった。そこで、自分が小学校に上がるタイミングで名古屋に引っ越すことになった。

いままで親しんだ片田舎から出て、愛知県の大都市名古屋へと引っ越すことになった自分の少年期については、また次回綴らせてもらいます。

ではでは(・ω・)ノシ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?