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旧市街より

朝、まだ6月なのにわたしの部屋は異様にあつくて長く眠っていられない。口元を覆う薄い膜は、いつかきみの呼吸を止めてしまうだろう。ノイジーな日々。聴きたいものしか聴きたくないから、イヤホンは耳栓のかわりにしてただそこを塞いでいる。目も塞いでしまえば完璧だね。

Twitterでいちいち進捗報告をしていたけど、いちごのシロップをおいしくつくった。もうすぐ季節外れになる、夜中のスーパーマーケットで100円引の小さないちごを引き取って、煮沸した瓶にたっぷりの氷砂糖と交互に重ね、ていねいに閉じこめる。それだけ。インターネットのレシピ・サイトには1週間はかかると書いてあったのだけれど、ふた晩ほど台所の隅に置いておいたらきれいに溶けてとろんとしたシロップができあがった。薄暗い台所に独りにしたから、こわがらせてしまったのかもしれない。

いちごのシロップは匙ですくいあげて、炭酸水やミルクやお酒で割って実においしく飲みほした。すこしでも瓶の中身を指でさわったり、汚れた匙で掻き回したりしたらたちまち腐ってしまうだろう、という緊張感も、シロップの神聖さを証明するのに役立ったといえる。この繊細な瓶がある毎日は、とても豊かなものだった。こんどは違う果物でつくってみたい。レモンや金柑はどうだろう?すこし酸っぱいものが向いているはずだ。

ねむりから醒めるように街のお店がだんだんと動きだしていく様子を目の当たりにするのはおもしろかった。ランチの選択肢がようやく増えたのはよろこばしいし、遅くになった帰り道、ひとつでも多く灯りがともっているのはやっぱり心強いものがある。それでも、好きだったお店の、閉店のしらせを何件も聞いた。悲しい。わたしは彼らにたいして、何もしてこなかったのかもしれない。ではどうしたらよかっただろうか。答えのでないことに対してそうやって大げさに悲しむことすら、嫌になるときがある。わかったふりだけはしない。じぶんでじぶんのことを、物わかりがいいだなんて思ったらおしまいだ。

おととい仕事が一段落して、ひさしぶりに隣町のシネコンへ行った。ほんとうは都心のミニシアターのようすが気になったけれど、けっこう混雑しているときいて、億劫になりやめた。郊外のシネコンはがらんとしていて、『AKIRA』の4K上映があると知って出かけたけれど、300のキャパシティの劇場に、観客は4、5人ほどだった。いま、一定の劇場ファンのいるミニシアターよりも、こうしてなんでもないふうにショッピングモールに併設されているシネコンのほうがよっぽどあぶないかもしれない。シネコンにはシネコンの、この郊外の空気を内包したほどよい気怠さがあって、それがいい。すこしばかりは足しにしておくれと、大きいサイズのコーラを買った。飲みきれなかった。大画面で観る『AKIRA』は迫力があって、おもしろかった。わたしのネットプリントに名付けた「オルタナ旧市街」のルーツの一要素でもある。安直だけど、気に入っている。棄てられた街にこそほんとうのなにかが眠っている。その価値を決めるのはじぶんであり、じぶんではないこと。

映画の予告で『ストーリー・オブ・マイライフ』の公開日が来週と知る。ずっとたのしみにしていたから、はやく観にいきたい。シアーシャ・ローナンの演技がたのしみだし、子どものころ、若草物語にすこしはまった時期があった。小学校2年生くらいだったから、歳の近いエイミーの学校生活にあこがれていて、塩漬けのライムをつくろうとしたこともあったし(ぜんぜんおいしくなかった)、キャンディ・パーティの真似をしたくて学校の裏庭にお菓子の缶を隠したこともあった。

そのとき仲のよかった、同じクラスのみわこちゃんにだけキャンディ・パーティのことをおしえて、中休みのあいだ、こっそり植木の下に隠したお菓子の缶から、飴やグミをひとつぶずつとりだしてわたしたちはささやかな犯罪をたのしんだ。そのうち怪しんで後をついてきた別のクラスメートの女の子にみつかって、帰りの学級会の裁判にかけられてしまったのだけど、それでどうしたかはよく覚えていない。叱られたか、しらを切って隠し通したか、どっちかだ。都合のいいことだけ覚えている。

ちょうどいい切り株のある、図工室のちょうど裏手にあたるその庭はわたしが5年生にあがる前にコンクリートとフェンスに埋れてなくなってしまった。ひとけのない裏庭なんて、いまの学校にはもうどこにもないのかもしれない。

わかしょ文庫さんの毎週の日記がたのしみ。ひとの生活を垣間みながら、じぶんのことに思いをめぐらすというのは、こういうことだなと実感する。みなさんも読むといいです。わかしょさんの昨日の更新を読んで、若草物語にあこがれたりしながら、同時にわたしは思春期をむかえるまでのあいだずっと、男の子になりたかったことを思い出した。わざと乱暴な言葉づかいをしたし、服はもちろん、学校で使う書道ケースや裁縫セットのたぐいは、いつもグレイや紺の、とにかく地味なものばかりを母の反対を泣くほど押し切って選んでいた。ほんとうはランドセルも茶色がよかった。赤じゃなくて。ピンク色のものやスカートやラメ入りのタイツをかわいいと素直に思って身につけられるようになったのは、高校生を過ぎてからだったように思う。おしゃれもお化粧もいまは好き。

いっぽうで、べつに男の子の遊びにまざりたいわけではなかったし、やっぱりわたしは男の子になりたかったわけじゃなくて、なんでもないわたし一般でありたかったのだろうなと、妙に腑におちてきのうはねむりについた。おさないながらに、ジェンダーにゆれうごいていた時期があったのだと、今さらに思い出す。

ニュートラル。好きな単語のひとつ。

駅のポスター広告は軒並み剥がされていて、まっしろな板だけが何枚も連なってそこにあった。say-nothing. 何も言っていないものにこそ何かを言われているような気になるのは人間の性でしょうか。意味という病。

仕事はいそがしくて気持ちが不安定になる。まだまちがったことばかりをしていて、そのジャッジをじぶん自身で下すたびにげんなりする。考えがいまひとつ及ばない。及び腰だからだ。うっかり普遍的ただしさを求めてしまいそうになるから、もっと考えなくちゃと思う。間が抜けている。そう思ったときいつも『ついでにとんちんかん』の間抜作(あいだぬけさく)のビジュアルがよぎるのだが、じぶんでもなんでこんなに古いまんがのことを知っているのかわからない。ぜんぜん世代じゃないのに。これは誰の記憶だろう?

神保町にある、蘭州ラーメンのお店がおいしい。ランチにするにはすこし高いのでときどきしか行かないけれど、お店に入った瞬間に、中華圏特有の八角まじりのあのにおいに満ちていて、それだけでうれしくなってしまう。店の人はほとんど中国人で、厨房からときどききこえる中国語のひびきも心地がよい。政治は憎めど国は憎まず。ことしは中国本土に行きたいと思っていたけれど、しばらくは無理そうだ。このまえ、『地球の歩き方』の北京編を買った。行ってみたい国のガイドブックをかたっぱしから集めたい。知らない街にでかけたい。

夜はつめたい。多くの人とおなじように、この季節の風のにおいが好き。窓を開け放して夜を過ごすとき、終電でこの街に帰ってくるひとびとの、こつこつという足音がここ最近はめっきり聞こえなくなってしまった。さみしいと形容するにはあっけない、それによく似た(いま世界中で起こっている)多くの現象についてのふさわしいたとえをただ、いま静かに探している。

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