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大抵のことは憂鬱で、朝起きるのも億劫になった。日曜日のまま時をとめて1ヶ月くらい過ごしたい。

9.11から20年が経ったというニュースを見て、NYへ行ったときに見た、ワールドトレードセンター跡地のグラウンド・ゼロのことを思い出した。8月の暑い日で、そこにいる人たちはめいめいにアイスコーヒーやレモネードのカップを持って休憩したり電話をかけたりしていたけど、碑に刻まれたたくさんの名前と、四角く窪んだだだ広いその跡地の前に立つとじぶんの心臓がすこし冷えたのだった。世界はどうなってしまうだろう。東京駅の構内で、ぼんやりと虚空をみつめながら座り込んでいた人に今日も手をさしのべられなかった。ワールドワイドウェブだってお手上げの、どうしたらいいかわからないことが多すぎると思う。

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最近に買ったイカす本はこれ。ゴードン・マシューズ『チョンキンマンション 世界の真ん中にあるゲットーの人類学』(青土社)。隙のないかっこいい表紙であるし、届いたらとても好きな判型であったので抱いて眠りたい。

ずっと香港のことを考えている。台湾も好きだが、香港には言い得ぬ引力がある。魔窟とひとくちに片付けるには雑で、その正体がなんなのかもう一度ゆっくり訪れてみたいものだ。もう少し仕事が落ち着いたら中国語のオンライン講座にでも通ってみるかなと思っているけど、広東語か、北京語にしようか悩む。汎用性でいったら北京語なのだけど、いつか香港に行く日のことを考えたら広東語が多少わかったほうが、まっとうな敬意が伝わるんじゃないかと思っているのだ。ピーター・陳もそう言っていた。

ウォン・カーウァイの作品集DVDも欲しいなと思ってなにげなく検索したら5万円近くしたのでひとまずブラウザを閉じた。勢いで買ってしまうにはアルコールの力が必要かもしれない。

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良いウイスキーをなめるようにちびりちびりと読んでいた『うろん紀行』を読了。連載を読んでいたときも同じ感想を抱いたはずだが、最後の方の章にある、とある締めくくりの言葉がかっこよすぎて文字通り胸がふるえる。先週に見た『ドライブ・マイ・カー』でも思ったが、肉体の移動はしばしば自らの思考を深めてくれる。知っている街や職場の近くが登場するので楽しいし、この本もまた誰かのガイドブックたりえるのだろうと思うとうれしくなったりうらやましくなったりもした。

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スーパーに季節の果物が並びはじめてたのしい。単位の小さい食べ物が好きなので(これはわたし個人の定義だが、たとえば袋にぎっしり詰まったアソートクッキーやおかき、炒り豆など、細かくてたくさんある食べ物のこと)ぶどうばかり食べているが、柿も和梨も並んでいて秋が来たのをわかった。ついこの間まで桃がなくなるのを恐れていたのに、もう気が変わってしまった。洋梨はもう少し待てばもっと安くなるかなと踏んでいるのでまだ買わない。引っ越したときに近くの道具屋さんで手に入れた、すてきなガラスのコンポートにいろいろなものを載せたくて日々果物をせっせと買っている節がある。食器というのは実用性が低ければ低いほど美しい。

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先週末は映画館へ久しぶりに行ったがいいものだった。劇場にはわるいけど、左右の座席にだれもいないというのはとても快適なことだし、どうにかしてこのスタイルで収益をあげつづけられないものかと切望してしまう。『ドライブ・マイ・カー』は良かった。長尺の濱口竜介作品であったのを忘れていて朝から何も口にしないまま劇場へ駆け込んだので、終わったあとに喉がからからだったが。村上春樹は学生のころにおおかた読んで、『女のいない男たち』は『神の子どもたちはみな踊る』『レキシントンの幽霊』の2つと並んで好きな短編集であった(反対に、それ以外の作品のことはびっくりするほど覚えていない)が、まああまりそのことは関係ないくらい乗り心地のよい映画だった。人間同士の伝わらなさ、わかりあえなさということを濱口竜介はずっとテーマにしているような気がする。バベルの塔みたいに異なる言語が交錯するあの演劇を、観てみたいと思った。タイトルは『ワーニャ伯父さん』でもよかったと思う。劇場を出たあとの書店ではチェーホフが平積みされていて、わかるわかると頷きながら帰った。

子どものころ、父がときどき運転する車の後部座席から見上げていた、夜の高速道路で明滅する青白い明かりのことを何度も思い出した。わたしのどうしようもないペーパードライバーな体たらくをいくらか克服できたなら、ひとりで夜の高速に乗れる日が来るだろうか?

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