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つめたい真昼

変なゆめをみているはずなのに、記録をしないからすぐ忘れる。もうじぶんのゆめに興味ないのかもしれない。さほど。でも、このまえみた、妖精を飼うゆめは幻想文学のようで、けっこうよかった。猫に似たけものの妖精が2匹と、ひとに似た妖精が1匹、どこからともなく窓からまよいこんできて、なつかれるゆめ。

手のひらサイズで、3匹ともとてもかわいらしいのだけれど、この国では妖精の飼育は2匹までと法律で決まっているから、ひとに似た……金の巻き毛の、女の子とも男の子ともつかないすがたの妖精は、ガーゼを敷いたクッキーの缶に寝かせてこっそりとかくまった。

ちょっと思い出せなくなってしまったけど、ちょうどそのとき当局の抜き打ち監査があって、妖精を規定数以上飼育していないかチェックがあったりして、いろいろたいへんだった。ただわたしの苦労なんかつゆ知らず、そのうつくしい妖精は戸棚の奥ですやすやとねむっているのだ。玉虫色にひかる半透明のころものしたで、コケモモみたいな赤い心臓が上下していた。美術品のようないきものだった。

稀にこういう、きれいなゆめをみることができるのはうれしい。「借りぐらしのアリエッティ」のサウンドトラックを聴いたせいだ。たぶん。あれは名曲づくしで、ジブリのサントラのなかでもけっこう気にいっているからときどき聴いている。

きょう、緊急事態宣言があけたらしい。夢中で仕事をしていたから、帰りの電車でやっとニュースを目にして知った。

街はどうなるだろう? 

いきなり営業にはならないかもしれないが、でも、なんでもない雑貨屋だとか洋服屋だとか、意味もなく見てまわりたい。とりわけ欲しいものがあるわけじゃないけれど。劇場も、映画館も。ブロック崩しのように、だまっていれば否応なしに窮屈に埋められてゆくこころに、すこしずつ余白をふやしていくことで、わたしたちは人間のかたちを保ってきたのだと、思い知らされる数ヶ月だった。生まれてはじめて、じぶんが大金持ちだったらよかったのにと思った。祈ったところでだれのことも救えないのに、そうすることでじぶんを肯定した気になった。

きょうを境に日常らしきものがまたゆっくりと元の配置にもどろうとするだろう。そしてわたしたちは、それ以前に存在していたもののことをだんだん忘れてゆく。身のまわりだけでも、好きだった店が3軒ほどなくなった。それでも、そうして知らぬ間にすりかわってしまったもののことをなに食わぬ顔で歓迎するのだ。おかえり、ようこそ。その行為の集積が、今なお更新され続けている《現在地点》であることを、ときどき受け入れられなくなる。

春がくるまえ、あの通りの角にあったはずのなにかを、わたしはもう思い出せなくなっている。だれかがそこにいた気がする。輪郭はやがて霞む。損なったものばかりを嘆いてきたくちびるで、わたしのことをいつまでも憶えていてねとほほえむのは残酷だ。

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