薔薇の芽の針やはらかに
鶯谷の子規庵というところで、「これからの表現」というトークイベントと展示を見に行ってきた。この日はなんだか朝から憂鬱で、とにかく人見知りを大発揮しそうだったので開場の1時間くらい前から周辺をうろつき、入谷の近くの三河屋で濃いめのハイボールを一杯やってから出向いた(じぶんが何かするわけでもないのにつくづく自意識がとんでもない場所にあると思う)。そのくせ酔いは15分くらいしか持たなくて、せっかく話しかけてくれた人にも「あ…はァ」みたいなリアクションしか取れなくてほんとうに不甲斐なかった。このまえ仕事でパーティーに出たときは気味悪いほど流暢にぺらぺらりと喋れていたのに、ときどきじぶんがまったく別人になってしまうような日がある。
正岡子規の旧家だったという、子規庵はすてきなところだった。ながい時間のなかでそこだけが懸命に護られていたみたいに、清潔な静けさをもって構えられていた。こんなふうに畳と縁側のある場所を訪れると、はじめて来たのに懐かしいような気になってしまう。日本人はちょろい。鶯谷にこんな場所があったんだなあ。
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「これからの表現はどうなっていくのか?」というテーマで語られる作家やライターの方々の話を聞きながら、自らの来し方行く末について自分勝手に考え事をしていた。潮流に乗っかってみれば、そんなにみんな共感したいのだろうかと思うことはあるし、でも共感するということは「わかられたい」ことなのだろうと思う。そのことはそっとしておきたい。だけど、たとえばだめな恋愛をなんとなくおしゃれな言葉で言い換えられて「わかられた」気になってしまうというようなことがおそろしいと思っていて、基本的にそういうところに他者性というものは一切存在していない。自意識を糖蜜でコーティングした「あるようでない」という怖さを、きっとじぶんもしでかしている。とはいえそのことにじぶんであれ他者であれすくわれることも確かにあるのだろうし、すっぱりと断罪することは決してできない。冒頭で「いかがでしたかブログ」について触れられていたけど、考えたけどわかりませんでした、というのはいまの思考の本質なのかもしれない。信じたいものを信じたらいいと思う。人間みな大昔からそうしてきたのだろうし。
まえにべつの記事でもちらっと触れたが、ほとんど批評不在のインターネットはどんどんポエジーになっていく。批評というのはなにかを暴いてしまう・暴かれてしまうもののように言われるけれど、表側しかないと思っていた定食屋のメニューにじつは裏側もありまっせというような、気付きえなかった余白の外側を拡張してくれるものだと思う。大滝瓶太さんの「批評家はみなロマンチック」という言葉に、笑ったがほんとうにその通りだ。今年は批評にたいする筋力をつけたいなと思った。これを読んどけという批評文があったらどなたかこっそり教えてください。
とにかく、繰り広げられる話の端々を拾い集めてはじぶんのことについて考えていた。語られていなくても関連したべつのことについて裾野を拡げて考えられる機会というのは多くないので、良い時間だったと思う。こういうことを刺激と呼ぶのだろう。
展示のほうは〔子規の過ごした年数にちなみ、8名のイラストレーターが、子規の横顔をそれぞれの作風で描き、作家8名が「これからの言葉や文学」についての文章を添えた掛け軸作品8本を庵内に展示〕というコンセプトだ。掛け軸に現代的なことばやイラストがかかれているのはなんだかSFみたいな不思議な印象で、トークイベントが終わったあとも『なんでも鑑定団』みたいにして、みんな畳の上をぐるぐる歩き回って眺めていた。こんなに若い人が大勢あつまって掛け軸を眺めるという機会はそうそうないと思う。子規庵のひとは「正岡子規がみたら喜んだと思いますよ」というようなことを云っていたけれど、あの光景を見たら膝を打って笑い転げていたかもしれないな。
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帰り道で、なんとなくひとりで飲みたくて日暮里の居酒屋に入った。「ひとりで」と告げたら傍にいた2人組の男に「ひとり!」と小さく笑われてまた憂鬱になってしまったのだが、会計を済ませたあとでその店のママが「ここひとりで来る人多いから気にしないでね。また来て頂戴ね」と優しくとりなしてくれた。居酒屋のママというのはどうしてみな何もかもお見通しで、なんてしなやかなのだろう。いつかこれまでに出会ったママたちのことを書いた本でも出したいなという、しょうもない思いつきを並べながら改札をくぐった。
子規庵での展示は24日までだそう。
※ちなみに日暮里の居酒屋はこちらです。肉豆腐がやわらかくておいしかった。
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