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準急色の帯の色(後編-解説編・整理)

読者の皆さん、こんにちは。
少し間が空いてしまいましたが、今回は”準急色の帯”の後編になります。
※前編の記事を読んでいる前提で書いていますので、未読の方は先に前編記事を確認していただけますと幸いです。


4)”赤帯”の塗色規程上の位置付け

塗色規程制定時(1959年6月)時点での条文について確認してみましょう。

第14条 1等車及び2等車には、車体外部両側の窓の下に150ミリメートルの
    幅をもって等級帯をつけ、その塗色は、1等車は白とし、2等車は青
     1号とする。但し、特別急行(つばめ、はと、あさかぜ、はつかり、
    及びこだま)用及び気動車の2等車には、等級帯をつけない。
(2)  準急行用気動車
   飾帯の塗色は、赤2号とする。

鉄道公報 昭和34年6月23日号外 「車両塗色及び標記方式規程」より引用  太字は筆者による
http://jindou.la.coocan.jp/tecs_next.htm に で当該の鉄道公報を閲覧できます。

上記条文から読み取れる内容を整理すると以下の通りになります。
①準急行用気動車につけられている帯は”飾帯”であり、等級帯ではない(ちなみに、3等車を示す赤帯は1940年2月に廃止されている)。また、ここには「デザインの一環としての帯」という位置づけがあり、デザイン性が重要視されていたことがあったために特例的な対応がとられていたと考えられる。
②等級帯をつけたキロハ18(準急色・旧標準色いずれも)が存在していたことから、気動車の2等車はキロのことのみを指していたと考えられる。当時の時点では、キロはキロ25のみが存在していた状況であったため、これを強く意識して設けられた条文であったと考えられる。

5)飾帯でも問題にならなかった理由・飾帯を等級帯に改めた理由

上記の理由について、それぞれ考察した内容を以下に示します(※詳細な解説を求めない方もいるかと思うので、まず以下に概要を示します)。

①「1959年8月以前に設定されていたキロ25連結の準急行列車は、全列車が全席指定制をとっていた。乗車に必要なきっぷには乗車する車両の号車が印字されていたため、等級帯がつけられていない車両であっても、旅客は問題なく正しい車両に乗れる状態だった。」
②「1959年9月以降、キロ25連結の列車で座席指定制をとらない列車が運行されるようになり、きっぷ上に等級のみが印字されるケースが生じるようになった。旅客はきっぷの印字を基に乗車を試みるが、2等車と3等車の外見はほぼ同じであったため、正しい乗車口が判りづらく誤乗が発生しやすい状況だった。等級帯を使用することで誤乗を防ぐことができるため、飾帯を等級帯に変更した。」

ここからは、①・②についてそれぞれ詳しく書いていきたいと思います。
①:当時設定されていたキロ25連結の準急は、”ひかり”・”きのくに”でいずれも全座席指定の列車でした[1][2]。当時の準急のきっぷには、等級が示されているものと号車・座席番号が示されているものがありましたが、座席指定の列車は当然後者のものであり、誤乗し辛いものとなっていたと考えられます。また、鉄道工場1959年3月号に以下の記述があります。

なおこの動車(筆者注:キロ25のこと)は2等車でありながら等級を示す青帯を付けない事とした。というのはクリーム色の車体に赤帯を通したディーゼル動車準急の編成美をくづさないためである。側出入口部の2の字により3等車との区別をする。(臨時車両設計事務所 内村守男)

鉄道工場1959年3月号19頁 準急用キロ25型ディーゼル動車より
https://dl.ndl.go.jp/pid/2359923/1/11 

等級区別の点についても触れていることから、開発側も誤乗のし辛さについて認知していたうえで、デザイン性を優先していたものと考えられます。
 なお、「きっぷに号車が印字されているために誤乗し辛い」という認識は第14号1号の但し書きにある列車にも共通していたと考えられます。

②:ところが1959年9月以降、”準急やくも”(筆者注:米子-博多間を走る列車。現在の特急やくもとは全く異なる)や”準急かいもん”などで、座席指定制ではない2等車連結の準急列車が運行を開始するようになります[1][3]。
 座席指定制をとらなくなったことから、号車番号が明示されない(誤乗に気付きにくい)準急行券が登場するようになり、”外見がほぼ同じ車両”に対して誤乗する可能性が高まったと考えられます。2等車(1960年7月以降は1等車)の出入り口には2の等級標記が示されていたのですが、それを見落として乗車する乗客も多かったのかもしれません。

1959年9月頃から誤乗の発生確率が高まったことにより、防止策を講じる必要が出てきた。そこで、飾帯のデザイン性よりも等級帯の機能性が重要視されるようになり、1959年11月の規程改正で当初の方針から一転して2等車に等級帯を塗るようになった。なお、より誤乗の可能性が高かった合造車(キロハ18やキロハ25)は、当初から対策を求められていたので、規程上で合造車を2等車の定義から外し、飾帯と等級帯を塗り分ける方針をとっていた。
…このような”うごき”があったのではないかと推察します。

全車指定席制をとっていた時代には、飾帯で統一されたデザインでも問題にならなかった。しかし、全車指定席制がなくなったことで、素人目に”同じに見えるデザイン”(飾帯で統一されたデザイン)は旅客案内上問題として現れるようになり、等級帯での違い付けが求められるようになった。
本章の問いの答えは、この二文に集約できると考えます。

6)その後の準急色

最後に、準急色廃止までの流れについて書いておきます。
気動車による準急行列車は1959年9月以降も設定が続けられていき、キハ55系の運用区域・両数は増加を続けました。ところが、1960年には試作車のキハ60形・キロ60形を含めたキハ55系の製造が終了し、翌1961年から有等列車向け車両としてキハ58系列の製造が始まります。この頃から往時の輝きに陰りが見え始めるようになっていきました。
 キハ58系列の大量増備が進むにつれて、キハ55系列は相対的に少数派へと変化していきました。準急色はその少数派の車両専用の塗装として存在し続けていたため、次第に資材の標準化・管理/作業の合理化の問題点として捉えられるようになり、1962年9月の塗色規程改正で他の専用塗装・塗色と共に整理統合の対象となって廃止されました。この改正により、準急色の車両は順次クリーム色4号と赤11号からなる”急行色”へ塗り替えが行われ、当初は”急行みやぎの”用キハ55系と同じ姿(貫通扉の赤11号部分に下向きの突起がある・運転室扉にも赤11号の帯が繋がっている)となり、後にキハ58系列と同じ姿(前面帯の塗り分けが直線・運転室扉はクリーム色4号のみ)になりました(※キハ55 167は例外的に1980年代に入っても、”みやぎの”時代の姿を保っていたようです)。

準急色は、昭和30年代前半の多色化の中で生まれ、昭和40年頃の標準化の中に消えていった塗装です。活躍期間は10年に満たない塗装ですが、国鉄初のクリーム色主体の塗装は人々に強いインパクトを与え、今でも印象に残り続けているのです。(2024年4月21日 第1版公開)

参考文献・参考サイト

[1]:岡田誠一(2013)『国鉄準急列車物語』JTBパブリッシング
[2]:池田和政(2019)『国鉄乗車券図録』成山堂書店
[3]:よんかくよもやま話."時刻表1961年10月号 九州編”.通票よんかく.https://yonkaku.com/yonkaku_wp/1248/ ,(2024年4月21日閲覧)
:1961年10月時点の鹿児島本線の時刻表が掲載されています。これを見ると、1等車連結の気動車準急列車は”準急ひかり”のみが座席指定制をとっていたことが分かります。

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