見出し画像

「必要とされる仕事をする」とはどういうことか

最近仕事をしていて何か違うと思うことがだんだんと増えてきた。今の職場で仕事をするようになって半年以上が経つが、ここにきていろいろ課題が浮き彫りになってきた。それと同時に、自分の仕事へのモチベーションへの影響も感じられるようになってきた。僕は若年者への就労支援の仕事をしている。この仕事は、仕事をしたいが何らかの理由でそれが困難な状況にあるクライアント(CL)に必要な支援を講ずる仕事である。その中で、現状の仕事に対してさまざまな問題が見受けられるようになってきたことから、それを自分なりに整理してみようと思い、今回記事にすることにした。

この仕事は二つの方向があると思う。それは、ひとつはCLに対して直接的に一対一で支援をする方法で、もうひとつはキャリアコンサルタント(CC)が多数のCLに対して支援をする方法である。今回は後者について考えてみたい。現職では、一対一の面談だけでなく、セミナーという形で支援メニューを提供している。このセミナー、個人的にははっきりいって苦手である。大勢の人の前で話すということに非常に強い苦手意識をもっている。これは気質や性格のような自分のパーソナリティにかかわるところなのでどうしようもない。自分の仕事は公共事業であるため、その事業の中で求められているのがセミナーの開催である。

しかし、セミナーを企画するにあたって、なんというか違和感をもってしまう。どういうことかというと、自分の目の前のCLに対して、本当に必要な支援を提供できているのかという点である。一対一の面談では、目の前のCLに対して、現在このCLに必要なことは何か、という課題をもとに必要な手段を講じていく。ここでは個別の事例であるため、きめ細やかな支援を講ずることができる。一方、多数のCLへ支援を行うセミナーでは、どうしてもこのきめ細やかな支援を講ずるということに無理が生じてしまう。一対一の個別とは違って、複数のCLに支援となるとどうしても多数に適用できる内容になってしまう。ここで問題になってくるのが「多くのCLが必要としていることは何か」という視点である。これは間違いではないが、それが本当に今必要なのかという視点が重要であると思う。

少なからず人の心と向き合う仕事をしていて、非常にもやもやすることがある。セミナーを企画するにあたって、どうしても「CLが必要としていること」ではなく、「CCがCLに必要だろうと思っていること」を提供しようという思考に陥ってしまうことがある。今の僕の職場はそういう状態であると感じている。現に、以前『後悔を好機に変える』や『ネガティブだからうまくいく』という内容についてのセミナーを企画したいと意見を述べたことがあった。しかし、そこではほとんど理解や共感を得ることができなかった。さまざまな意見がでたがほとんど批判的なものが多数だった。しかし、僕がそのようなことに必要性を感じているのは思いつきでもなんでなく、近年の心理学をはじめとした学術的な研究成果に裏打ちされたものである。

最近の社会的な風潮として、「ポジティブでなければならない」とか「後悔しない選択」を是とする考え方が当たり前のようになっている。CCの中でも、「自己肯定感」という概念を好み、実際に自分の支援に取り入れている者も多くいる。しかし、そこには自分の「勘違い」が存在しないか?「自分が必要と思う」からそういう志向をCLに押し付けてはいないか?もう一度自問自答する必要がある。僕は、ポジティブでなくてもいいではないかと思う。後悔したっていいじゃないか。後悔しない生き方なんて長い人生でないよ。むしろ後悔の連続である。重要なのはその後悔をどう自分で解釈して、意味づけし、これからの人生においてどう生かすかを考えることが重要である。

しかし、世間一般では、ポジティブでなければならないとか後悔しない選択が正しいこととされ、それを多くの人が無批判的に信じ切ってしまっている。現状の自分の仕事では、僕のように考える人はほぼ皆無で、まあいわば「おかしなことを言っている」というようにしか見られていないように思う。僕ひとりが我慢すればいいという問題ではなく、CL一人ひとりの人生がかかっている。しかし、この事業の支援としてセミナーを開催しないといけないという命題に対して、どうしても短絡的なものの見方になってしまうのは無理もないことかもしれない。そんな風に自分を慰めるのなんて不本意でしかないが、自分ひとりではどうしようもない。

どのような職場でもそうだが、どうしても声の大きな人の意見や考えに影響されてしまう。民主的な視点からいえば多数の意見に同意されるのは当然のこと。しかし、CC自らが自分の仕事を是正、改善できる自浄能力を持つことが必要であると僕は思う。今の職場では、はっきりいって自分の意見はほんど通らなくなってきたと感じている。特にセミナーの企画に関しては、企画以前の段階で共感や理解を得ることが困難になってきたと言わざるを得ない。

正直なところ、本音をいえば自分のキャリア支援においてセミナーの位置づけにはそれほど重きを置いていない。多数のCLよりも個人のCL、個別の問題に向き合うことに重きを置いている。しかし現状では、自分の仕事のキャパシティーの中でセミナーの割合が多く占めるようになってきた。むしろ個別の支援に影響を及ぼすようになってきたと言っても過言ではない。僕も人間である。僕にも感情がそなわっている。キャリアコンサルタントは聖人君子でもなんでもなく、まがいなきひとりの人間である。僕にも我慢の限界がある。

確かに、これまでセミナーの講師なんて一度もしたことがなかったから、いい経験にはなっている。多くのCLにきっと有益なものになるであろうテーマを考え、資料をつくり、わかりやすく説明をするということは自分にとって非常に有益なものになっている。しかしそれが、本当にCL一人ひとりの問題課題の解決の糸口になっているかはわからない。良く言われることがある。それは、(そういう仕事が)「自分のためにもなるから」(なんでもやってみるべきだ)というもの。確かにそうだ。確かに今の自分の仕事におけるセミナーの経験は、自分のキャリアにおいて貴重な財産になっている。しかし僕はそういう視点で仕事をしているわけではない。僕の仕事へのスタンスは「やりたい仕事をする」でもなく「CLに必要と思う仕事をする」でもない。僕は今の仕事で重要としているのは「CLが必要としているであろう仕事をすること」である。この違いは主体をどこに置いているかである。主体を自分であるCCに置いているか、相手であるCLに置いているかの違いである。主体を自分に置いていいると、えてして独りよがりな仕事をしてしまう恐れがある。僕は常に、主体をCLに置いて物事を考えている。「自分は」「自分が」ではなく「CLは」「CLが」という視点を心掛けている。しかし、そのように自問自答する人は少ないのかもしれない。どうしても自分が正しいと思いがちである。

それにしてもである。つくづく、僕は組織に属することに向いていないと思う。ここまで支援について述べてきたが、業務管理の面でも組織としても問題が浮き彫りになってきた。会議でいろいろな意見がでることはいいことではあるが、「それは本当に今必要なことなのか」と思わざるを得ないことが通ってしまう。さらに、ある人が問題提起して、その対策を講じることになってそのことに助け舟を出したらいつの間にか僕がその対策を練ることになった。なぜこのようなことが起こってしまうのだろう。一個人のCCが困っていたから組織としてリスクマネジメントを講じておく必要性を説いたら、「それならあなたやって」とばかりに自分がやることになるという。少なくとも、僕は個人としては、自分のリスクマネジメントとしては個人でなんとかできると思っている。極論をいえば僕は個人的には今回のような問題に個人として対処できると思っている。それを組織として必要だからという思いで行動を起こしたのに・・・というやりきれなさが募ってしまう。そんななら、あえて自分でなんでもかんでも抱えることなんてないと思う。僕は僕一人の力でリスクに対してなんとかやっていけるのだから。そういう意味では僕は組織には属せない人なのかもしれない。

とりとめのない書き方になってしまったが、少なくとも僕は、「やりたい仕事をする」でもなく、「必要と思う仕事をする」でもない。僕はCLが「必要としていることを提供できる仕事」をしたい。そう強く思う。こういうことがなんとなくでも伝われば幸いである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?