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『あなたにとって❝ストレス❞とは「アカデミア哲学カフェ」』に参加して

こんにちは。

先月、タイトルにあるように、OBPアカデミアというコワーキングスペースで開催された哲学カフェに参加してきました。今回のテーマはストレスについてです。前回は確か、良い人についてだったかと思います。今回はストレスということで、さまざまな見方や意見が出てくるだろうと期待しながら参加しました。

まず、ストレスの事前知識について触れておきます。この事前知識について、実際の現場では私は発言していません。それは、哲学カフェの特徴として、誰もが自由な発言を行うという観点から、正しい知識の共有が必要だとは思わなかったからです。しかしながら、本記事においては、あらかじめ事前知識として触れておこうと思います。

ストレスについては、ストレッサーとストレス反応にわけられます。ストレッサーというのは、その原因となるものです。例えば、人であったり環境であったり出来事であったりします。職場でいうと、上司や同僚、部下の言動、仕事の質・量といったところでしょうか。仕事の質というのは、極端に自分の能力以上の難しい仕事や、その逆に簡単すぎる仕事しか与えられないというようなことが挙げられます。仕事の量でいえば、長時間勤務や残業ですね。また、職場に限らず、家庭内や学校内でも多くのストレッサーの存在が考えられます。

このようにみると、私たちの身の回りにはありとあらゆるストレッサーが存在しています。それらのストレッサーにさらされ続けると、私たちの心身にどのような反応が表れるのでしょうか。それは、3つの反応にわけられ、身体面、心理面、行動面に表れると言われています。ストレス反応の原因となるのがストレッサーであり、その反応がストレス反応で、それらを総称して、ストレスと一般的には言われています。

それで、今回の哲学カフェでは、「ストレスは嫌なものなのか」というテーマに絞って意見が交わされました。ストレスは嫌なもの?という疑問の裏にあるのは、「ストレスは嫌なものばかりではないよね」という意図が見え隠れしているようにも私は個人的には思ったのですが。嫌なストレスがあれば良いストレスもありはずだということで、さまざまな意見が出ました。むしろ、困難を乗り越えるためにはある程度のストレスは必要だということですね。




ただ、私は個人的にはこの良いストレス、悪いストレスという見方には疑問をもっています。それは、圧力や負荷、緊張、欲求不満などとストレスを混合してしまっているのではないかということです。しかしながら、ストレス反応が出てくるまでには多少のタイムラグがありますから一概には言えませんが。例えば、スポーツの場面では、負荷や緊張を強いられることがあります。車などの運転場面では、イライラなどのフラストレーションが溜まる場面も当然考えられます。しかし、今回の哲学カフェでは、そのようなことは置いておいての議論が中心になります。

私が考えるポイントは、自分の力だけではどうしようもないようなこと、何のいわれもないことです。例えば、職域でいえば、上司からの度重なる叱責などが考えられます。特に、その叱責の原因となることより、叱責の手段に焦点があてられることが多くあります。「そんな言い方しなくてもいいのに」とか「他の社員がいる前で長時間にわたり叱責を受けた」というようなことです。これは、れっきとしたパワハラですよね。このようなことが長期にわたってあると、私たちの体は何らかの反応を示すことになります。適度なストレスとそうでないストレスというような表現をされると、なんとも言い難いモヤモヤが残ります。

ポイントは、自分の力で何とかできることかどうかだと思います。上司のパワハラにさらされ続ける状況が長期間にわたるからといって、その上司の行動を改めさせることは普通はほぼ不可能です。配置転換や異動を申し出るか、最悪転職するしか道はほとんどありません。

また、自分からみた他者のストレスという見方もあります。これは、往々にして誤った見方をしている場合が多いと思います。実際は、身体面や心理面に相当のストレス反応が出ているのに、他者からはそれらは見えず、ぜんぜん大丈夫だという見方をしてしまうことが考えられます。手足を怪我しているなど、明らかに不自由な状態というのは誰が見てもわかります。しかし、心理的な不調は他者から見ても具合いが悪いとは見えないことが多いのですよね。また、行動面に表れる場合ですが、例えば、ある時点から遅刻が多くなる場合について考えてみます。このような場合、やる気がないとか生活習慣の点で見られることが多々あります。

しかし、良く考えなければならないのは、強いストレスを抱えていることによって、不眠に陥り、睡眠不足の可能性が考えられます。それによって、朝起きることが難しくなって遅刻が多くなってしまうこともあります。確かに、個人の問題と言ってしまえばそれまでですが、他者の抱えている内面の問題というのは、なかなか見えづらいものだということです。


次に、「ストレスを乗り越える」ということについて考えてみます。例えば、家族の死など災害や事故に遭った場合についてです。これは、その出来事の直後は深い喪失感に見舞われ、強いストレスにさらされることになります。この際、当事者はその責任は自分にあると、自分を責めることになります。しかし、それも時が解決してくれることもあります。時がたつにつれて、その当事者に変化が表れてきます。それは、当初の苦悶の日々を過ごすことによって、「自分にとって、その出来事はとても貴重で重要なものだった」という考えをもつようになるということです。このよなことは、震災などの喪失体験を経験した人のインタビューでもたびたび見られるものです。



達観している言ってしまうには、あまりにも無理があるように思いますが、このような考えに至るには、つらく悲しい経験を自分の中である程度咀嚼、処理できることでもあります。そのためには、長い時間が必要ということで、その人にとって、そのような強烈な経験が、やがてかけがえのないものへと変化していくための、避けられない道なのかもしれません。

また、失業の問題について考えてみます。これも、自分の力だけではどうしようもないことです。失業は、その期間が長期化することへの生活困窮の問題もはらんでいます。そういう2次的な側面も持ち合わせている複雑な問題です。それこそ、不眠などの症状を訴える人が多い印象です。いくら求職活動を頑張っても、相手があることですからすぐに解決へ結びつきにくい特徴があります。

では、私たちはそのようなストレッサーにどのように対処すればいいのでしょうか。ひとつは環境面です。それは、人に助けを求めるということです。家族であったり友人であったり、また現在多くの専門の相談窓口が設置されています。そういう専門的な機関に助けを求めることも可能です。

最近、グリットという言葉をよく見聞きするようになりました。これは、いわば粘り強さというようなことです。強いストレスにさらされながらも、ある程度自分で対処しながら、他者の力も借りながらなんとかやり過ごすというようなことですかね。また、最近レジリエンスという言葉もよく見るようになりました。これは回復力というような意味で、先の強い喪失感に見舞われた人がやがて立ち直っていく段階において、回復していく力を身につけていくことが考えられます。

しかしながら、当事者はそのような冷静かつ賢明な考えをもつことは非常に困難な状況にあるはずです。誤った見方をして、大変な状態にある人をさらに傷つけてしまうこともあるわけですから注意が必要です。まずは、「ストレス」についての正しい知識をもつことが重要です。自分も含めたストレスを過少、または過大評価してしまう恐れもありますからね。正しい知識をもち、必要な場合は専門機関に相談するとか、医療機関にかかることも念頭に置いておいたほうがいいでしょうね。

今回、ストレスについての哲学カフェに参加して、私なりの考えをまとめてみました。今回の哲学カフェに参加して、多くの人のさまざまな意見が聴けたことは私にとって、とても貴重なものでした。改めて、ありがとうございました。


今回はここまで。

最後までお読みいただき、ありがとうございまいた。

また次回、よろしくお願いいたします。

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