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あなたにとって「良い人」とは?~哲学カフェに参加して考えたこと~

先日、大阪市のOBPアカデミアというコワーキングスペースで開催された『あなたにとって“良い人”とは「アカデミア哲学カフェ」』というイベントに参加してきました。(写真を撮ってくるのを忘れました)

OBPアカデミアーコワーキングスペース


哲学カフェといっても、プラトンやアリストテレスといった哲学者が論じた難しそうなことを取り上げるのではなく、その場の参加者がテーマを出し合って自由に話し合うというものです。場合によってはテーマが決められている場合もあるし、参加者が決める場合もあります。

飲み物片手に自由に発言します。ファシリテーターは進行するというよりも、時折補助的な解釈などを加えながら、あくまでもその場の流れや空気感を優先します。テーマにそって話すといっても、否定や反論するのではなく、自分の経験などに基づいた自分なりの考えを述べます。また、一定の結論を見出すことも基本的にはしません。

哲学カフェ(哲学対話)は、もともと昔の連歌からきてるようです。

今回、「良い人とは」というテーマで参加し、多くの方のさまざまな意見を聞くことができて、自分にとっても大きなプラスになりました。


そこで、改めて「良い人とはどんな人なのか」について、今回参加した哲学カフェの内容をもとに考えてみたいと思います。

みなさんは、「良い人」と聞いてどんな人を思い浮かべますか?例えば、性格、人柄、人格、言動、雰囲気など、さまざまな切り口で考えることができます。今回の哲学カフェでは、あくまで自分の経験にもとづいて発言するというルールでしたから、心理学の知見や専門的な理論を用いることはできませんでした。あくまで主観的な視点で発言をするということです。

さまざまな意見が出たのですが、そもそも、人の良い、悪いという「人が人の評価を下す」という行為とはいったいどういうことなのか、という根源的なところがきになってしまいます。職場でも学校でもあらゆる場面で、人が人を評価しています。もちろん、そこには評価項目や基準があるわけですが、それでも同じ人間が評価するという行為はいったいどういうことなんだろうと思います。

このようなことの疑問を持ちながら今回参加しました。個人的な意見として、いくら評価項目や基準がしっかり確立されていて、アルゴリズム的な制度が構築されていたとしても、主観的な部分がどうしても入ってきます。もし、そうであればAIに任せておけばいいような気もします…。

私たちが、対人関係において親しくなるのは自分との類似性が高い人という見方もあります。「性格が似ている」「気が合う」「趣味が同じ」「たまたま帰る方向が同じ」など、自分との共通点を見出すことによって親しくなることもあります。そうい人を「良い人」ということもあるかもしれません。

多くの人が、「あの人は良い人」と言っていたとしても、自分からすれば必ずしも良い人とは言い切れません。しかし、日本はコミュニティに属していることを良しとする文化があります。例えば、自分の価値観として、人の悪口を言うことは人間として悪いことだという信念があったとします。しかし、たまたま自分が所属しているそのコミュニティが人の悪口を言うコミュニティであり、現状自分はそのコミュニティに属さざるを得ない場合、そこの文化に「同調」せざるを得ません。そうでなければ、そのコミュニティから外れるしかありません。

このようなことは、職場や学校などの現場において深刻な社会問題になっています。我慢せざるを得ない状況が続き、メンタル不調や鬱などの精神疾患にり患してしまう問題が多く存在しています。


また別の見方もできます。たとえば、私たちは自分に対して耳障りの良いことを言ってくれる人のことに好感をもちます。そりゃそうですよね。やさしい言葉をかけてくれる人のことを嫌いになるはずありませんよね。しかし、果たして、自分にとって「良い」言動をとる人は本当に自分にとって良い人なのでしょうか。私たちは、人から指摘されたり注意されたり、叱責されたりすると、自然と嫌な気持ちになってしまいます。そのような人に嫌悪感をもってしまうことも自然の摂理かもしれません。

しかし、自分の今後、中長期的視点で見たとき、その人の耳の痛い言動が自分の成長にとってかけがえのないものである可能性もあるわけです。よく批判されるのが「そんな言い方しなくてもいい」という「方法論」についてです。これは、本質的な論点をずらしてしまっています。これは、自分自身痛いほどわかっているがゆえに、そんな言い方しなくてもいいでしょ、となるわけですね。私たちは、本質のところでは合っていたとしても、方法論のところで違和感があれば、その人のことを良い人だとみなしません。これが、私たちは感情を有する生き物であるということであり、さまざまな認知の歪みの影響を受けている証左でもあります。。

人物や物事のとらえ方の違いもあります。表層的な部分だけをみて「良い人」としていることが多々あります。これは、イメージ戦略で用いられています。消費者行動における「精緻化見込みモデル」であるように、私たちはある商品を購入する場合、CMなどを見てその商品の性能などから購入を決めるというより、そのCMに出演している演者のイメージから購入を決めることが多々あります。これを「周辺ルート」といいます。

このように、私たちは人のことをより深く知らなくても、表層的なイメージでもって好き・嫌い、良い・悪いと結論づけているのです。

ですから、私たちの「良い人」ということは、実は自分でもよくわかっていないともいえるのではないでしょうか。

個人的には、私は、世間一般的に「嫌われている人」ほど、実は良い人なのではないかと思っています。いやむしろ、世間では嫌われていたとしても、本当にその人が良い人なのか悪い人なのかはわからないといった方が正確かもしれません。

また、他者に対して援助行動をとる人のことに対して私たちは好感をもちます。しかし、私たちからすれば、その援助行動をとる人の意図まではわかりません。もしかしたら、その人は他者のためになる行動をとっている自分を周りの人がみたらきっと「良い人だと思ってくれるに違いない」という、意図をもった言動だったらどうでしょうか。

一方、同じ他者のためになる援助行動であっても、「周りからどのように見られているか」という自己イメージよりも、あくまでその他者のためになる行動をとり、自分のイメージなど気にしない行動をとる人はどうでしょうか。上記の自己イメージよりも思いやりを目標にしているということです。仮に同じ行動をとっていたとしても、双方の意図はまったく別のものです。
しかし、私たちからすれば、他者の意図などわかりません。あくまで、「自分が見える範囲の中でしか」良い・悪いという判断を下しているに過ぎないと私は思います。

自己イメージを目標とした行動をとる人よりも、思いやりを目標とした行動をとる人の方が、その人のためとなる厳しい行動をとることができます。そこには、相手から嫌われるかもしれないという懸念は存在しません。

今回の哲学カフェに参加して、これまで私が学んできたこと、経験してきたことの振り返り、復習の良い機会となりました。人が人を評価し、判断を下すという根源的な部分、普遍的なテーマに触れられたことは私にとってとても貴重なものでした。


今回はここまで。
ありがとうございました。

また次回、よろしくお願いします。

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