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【エッセイ】ウケたい気持ちをいったん手放してみる

趣味で大喜利をしていると、当然大喜利が趣味の人と関わることになる。

大喜利が趣味の人は、大喜利の場以外でも、自分が思う「面白いこと」を発信していることが多い。社会人芸人として、舞台で漫才やコントを披露しているのがその最たる例だが、Twitterでネタツイをしたり、noteに面白い文章を書いたりするのも、「面白いこと」の発信に含まれると私は思う。

私自身も、文章を書いたり、配信で企画を行ったりと、大喜利とはまた違う活動を、大喜利界隈の中にいながら行っている。

ただ、私が他のプレイヤーと少し違うのは、大喜利以外の「面白い」企画を発信する際に、そこまで「笑い」にこだわっていないことだ。

自身の大喜利会で、斬新な企画を考案・実施しているとあるプレイヤーに話を聞いた時、「大喜利にこだわらない、かっちりしていないふわっとした”お笑い”がやりたかった」という旨の発言をしていた。

「大喜利プレイヤーに取材して、ルポルタージュを書く」「名前がカッコいい音楽グループについて語り合う」「前からやりたいけど出来ていないことを発表し合う」。これらは私が打ち出してきた企画の一部だが、基本的に「笑える」要素はほとんどない。

先述のプレイヤーが「大喜利」にこだわっていないのなら、私は「お笑い」にすらこだわっていない。この思考に至った理由は、少なくとも二つある。一つは、周りのプレイヤーに対して「お笑い」では敵わないから別の路線を歩もうと決めたから。もう一つは、多くの映画や書籍にふれて、「笑える」以外の面白いがあることを知ったから。

この考えを他のプレイヤーに話すと「『面白い』といっても『Funny』ではなく『Interesting』の方ですね」という言葉が返ってきた。自分の中でしっくりくる一言だった。

「笑える面白いことをしたつもりなのに、多くの人に不快感を与えて炎上」というケースを数多く見てきた。ウケを狙って、「ウケなかった」では済まなかった事例も山のようにある。

私はお笑いが好きだ、笑えることが好きだ、笑いを取るのも好きだ、笑いを取っている人が大好きだ。でも、笑えたらOK、どんなことでも笑いに変えたらOK、笑えるかどうかが全て、みたいな世界とは仲良くなれそうにない。

なんとなく「笑えるものこそ正義」みたいな風潮が世間にあるような気がしてならない。「笑えること」を生み出している人は否定しないが、そういった空気には真っ向から歯向かっていきたい。「笑いがないけど面白いこと」を武器にして。

私が「笑えるもの」を本気で生み出す時、それはお題が出ている時だけだ。

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