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下心のこと

2000年になった瞬間、私はどこにいたかというと、大阪城ホールに夫となる人といて、The BOOMとともにカウントダウンをしていた。何となく恐れていたY2Kも何事もなく、それは陰でたくさんの人が努力された賜物だとは思うけれど、無事に2000年を迎えた。特に大きな感動も感慨もなく、淡々と2000年が始まった。
そして私は昨日50代に突入した。朝起きたら普通に50歳になっていた。そうか、普通に年を取るもんだな、2000年も普通に来たもんな、と朝いちばんに思い、こんな日に働いてたまるかと有休をとっていたので子供たちを送り出した後、のんびりとブラッシュアップライフの最終話を見て、普段できないわけじゃないけど後回しにしていたあんな家事こんな家事をゆっくりして、夕飯はから揚げ食べ放題だ!と2.5㎏の鶏肉をひたすら揚げた。
ずっと私は50代に早くなりたいと思ってきた。そしたらいろんなことを達観できると勝手に信じていた。だのに、いざ50になるという時になって、急に焦り、言いようのない不安に駆られ、こんなんでいいのか自問をし、あたふたしてる間に3月13日になった。達観どころかますます落ち着きがなくなり挙動不審な心持ちだ。

さて、50代に突入した今、私は何を考えているかというと、私の下心についてである。私には果たして下心のないものなどあるのだろうか。はっきり言って私の行動すべてに下心があるのではないか。そんな気持ちになっている。金運アップを狙ってせっせとトイレ掃除をしている時点で下心満載だ。損得勘定抜きでできていることなど私にあるのだろうか。いつもどこかで何か計算してやいないだろうか。
考え出すともうきりがない。このnoteだってそんなことを言い出したら下心丸出しである。誕生日だということを黙っておればいいものをここでも言いふらしている。おめでとうって言って頂戴、50歳にもなってなんてこと。

でも私の下心は私の下心なわけであるから私自身がそれを飼いならすしかない。それを完全になくすことなど私には無理だと思うから、私の下心と仲良くしていく方法を考えた方が賢明だろう。いい人なんだけど下心が透けて見えちゃう人に時々出会う。私もそうなってやしないか、自問自答しながら人付き合いするでありたいなと思う。しかし、何歳になったら達観できるのかな。還暦になったら達観できるのかな。達観出来たら下心はなくなるのかな。なくならないだろうな。



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