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女性として、人間として、法と人に向き合った人物の生涯


こんにちは、noteコーディネーターの玉岡です。
本日紹介する書籍はこちら!

NHKの2024年度前期朝ドラマ110作目「虎に翼」は、日本初の女性弁護士であり、後に裁判官となった三淵嘉子(みぶち・よしこ)をモデルとしたオリジナル作品。
そして本書は、その三淵嘉子(1914~1984)の評伝です。日本法制史のエキスパートである著者によって、多角的にその人物像が掘り下げられています。

本書の目次はこちら。


はしがき
第1章 三淵嘉子の生涯① 学生時代・弁護士編
第2章 裁判官編
第3章 三淵嘉子をとりまく人々
三淵嘉子 略年譜
あとがき
参考文献


第1章 三淵嘉子の生涯① 学生時代・弁護士編

第1章では、1920年代の社会趨勢下で嘉子がどのように教育を受け、法曹を志していったかが説かれます。
興味深いのは当時に草案・施行された弁護士法改正です。嘉子の学び舎である明治大学専門部女子部法科は、この改正弁護士法によるものとのこと。
この項では、大正という時代までに弁護士という職業が登場した経緯が語られています。

明治政府は、西洋の近代的な司法制度を継受し、一八七二(明治五)年制定の「司法職務定制」によって、新しい司法の構造の大枠を包括的に定めました。この法に定められた、訴訟に際して代理を務める代言人が、弁護士のルーツです。

本書32P

この代言人は、1893年の弁護士法公布・施行によって弁護士と呼ばれるようになり、社会的地位も向上していきましたが、判事・検事と比してその扱いは低いものであったそうです。
そして何より、弁護士になれるのは男性(成年以上ノ男子)のみの時代でした。嘉子が初の女性合格者として高等試験司法科をパスしたのは1938年。
そのための学びの時間を過ごした明治大学は、「女子学生にとって平等を体感できる場所であった」と本書は説きます。

(前略)人間の平等にとって教育の機会均等こそが出発点であると述べていましたが、明大はこの問題に正面から向き合った、まさしく「パイオニア」の学校の一つであったのです。

本書40P

戦争は嘉子の弁護士としてのキャリアにも影響を及ぼしました。
夫と母を亡くした逆境の中で、経済的自立を果たすために裁判官採用願を司法省に提出します。
ここで本書は次のように状況を紐解きます。

それまで、裁判官・検察官になった女性は一人もおらず、しかし実は「男性に限る」という規定が存在していたわけではありませんでした(つまり、規定はないのに、採用面などでの実態において、男性に限られていた
のです)。

本書61P

逆境を乗り越えるために、史上初の挑戦を行った嘉子のスピリットは裁判官として大きく花開いていきます。

第2章 裁判官編

第2章では、34歳にして東京地方裁判所民事部の判事補に任用された嘉子の裁判官としてのキャリアをたどっていきます。
女性初の判事として活躍し、新しい家族を築き、母としての視線を通して、法曹における嘉子の焦点は少年審判に注がれるようになります。その経緯を、本書はこう述べています。

嘉子がそれまで担当してきたのは民事訴訟で、刑事裁判を担当したことはなかったので、少年事件を担当することには不安もありました。
しかし、家庭局時代の上司 (初代最高裁家庭局長) であった宇田川潤四郎に、少年事件は少年を処罰するもなのではないから、刑事的な思考ではなく、むしろ民事の感覚が大切だと励まされ、前向きな気持ちになっていきます。
やがて嘉子は、少年審判の充実と少年の健全な育成とに心血を注いでいくようになります。

本書83P

少年審判に関する嘉子の視線は、次のように非常に透徹なものです。

「(18歳から19歳の年頃は)子供から大人になりかかる過渡期で、心情的に不安定な状態におかれています。一人一人問題のあるところを明らかにしたうえで、適正な手当を加えることが必要です。 刑罰にするか保護処分にするかの選別は、今の少年審判手続のような個別的な処理のできる手続でやらなければ、本当は判らないのです。 まず刑事訴訟手続に乗せてしまえば、どうしても刑罰が多くなり、教育のための保護処分が必要なケースも、見逃されてしまいがちです」「(一九七〇年に提出された筆者註) 改正要綱は、十八、九歳の少年の刑事裁判を、 家庭裁判所で取り扱うことにしていますが、これは余程慎重に考えないと、いままでお話ししましたように家庭裁
判所が、国民の幸せをはかる裁判所として二十五年間に築いてきた性格と、矛盾することにもなりかねません」

本書86P

この嘉子の視線から生まれたのが「東京少年友の会」です。東京家庭裁判所で扱う非行少年の更生福祉施策に協力し、少年の健全育成に資することを目的として設立され、現在では全国50ヶ所の全ての家庭裁判所に対応する会が揃っています。

1972年、新潟家庭裁判所において女性初の裁判所所長に任官した嘉子は、そこから浦和、横浜の家庭裁判所で所長を務め裁判官としてのキャリアをまっとうします。退官後に弁護士登録を行い、1984年に没するまで、法曹家として男女平等社会の実現に向けて尽力し続けました。

第3章 三淵嘉子をとりまく人々

第3章では、法曹をめざし、法曹家となり、法曹家としてのキャリアを鍛え上げていった嘉子の人生の階梯において登場した多くの人々が紹介されています。
きっと「虎に翼」では、これらの実際の人物が魅力的なキャラクターにアレンジされて登場してくるでしょう。

改めて、女性法曹家としてのパイオニアたる三淵嘉子という人物の生涯は、ドラマを通して、また本書を通して多くの人々に知られるべきものだと思います。
読了し、本書の帯文に書かれた次の文章が心に残りました。

「女性であるという自覚より、人間であるという自覚の下に」


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