見出し画像

遠いあの日、”エフィ”がいた


章子は学生時代に、ある高級住宅街の未亡人の家で住込みの家事手伝いとして働いていたことがある。専門学校に通いながら、家のなかの雑事をこなしていた。学校の1年先輩が高級マンションに住む若い夫婦の家事手伝いになり、「楽しいよ!」と話してくれたことがきっかけだった。

***

静まりかえった未亡人宅での何の変哲もない毎日の唯一の楽しみは、敷地内の貸し家に住んでいるフランス人一家の次男のエフィとのひととき。
エフィの住む貸し家には、代々外国人の家族が住んでいる。ある外資系の会社の社宅になっているからだ。

章子は以前から2階の物干し場で洗濯物を干していると、向かいの家の窓から子どもがこちらを見ているのに気づいていた。
両親と男の子がふたりという4人家族で、時々長男を呼ぶ母親の声がする。章子には「バートリ!」と聞こえていたが、実際は「パトリック」という名前だった。
外国人の名前は聞き取りにくいものだ。

次男のエフィは時々、章子が住んでいる家の前で遊んでいた。玄関前の道を通り過ぎて突き当りが彼の家である。
たまに友だちが来ていて一緒に遊んでいるときもあるが、たいていはひとりで遊んでいた。

ローラースケートのゴロゴロという音がしてくるので彼が遊んでいるのがわかる。ある日、章子がひとりで家にいる時にローラースケートの音が聞こえてきた。どんな子かなという興味もあり、外に出てみることにした。金髪のかわいい男の子だった。青い目でピンク色のきれいな肌をしている。

初めての会話。名前はエフィ。高校生のお兄さんのパトリックは今日は蔵王にスキーに行っているらしい。エフィは小学校5年生。最初の出会いでもあり、はにかんでいてかわいい。
この日をさかいに章子とエフィは友だちになった。

でも、残念ながら2人が会える日はそんなに多くなかった。

普段は家に奥様がいるので勝手に外で遊ぶわけにはいかないからである。玄関横の自分の部屋の窓越しに、ゴロゴロというエフィがローラースケートで遊ぶ音が聞こえてくる。章子が出ていくのを待っている様子が伝わってくる。

それがわかっていても章子は外に出て行っておしゃべりすることはできない。心の中でジレンマが生じる。
「エフィ、ごめんね。今日は会えないよ」と心の中で謝る。しばらくするとローラースケートの音はしなくなる。

「ようやくあきらめたか」
胸が痛む。次の機会にはなんとかして相手をしてあげなくてはとあせる気持ちを抑えて自分の仕事に励む章子であった。

***

ある寒い冬の日。章子がひとりで家にいるとエフィが玄関にやってきた。何か大変なことが起きたらしい。章子はとなりの家に駆け付けた。初めて入るエフィの家。キッチンに彼の母親がいて、なにやら困っている様子だ。何があったのか。彼女は誰かと電話でしゃべっている。

キッチンに入っていった私を見たが、日本語が話せないらしい。章子は英語もフランス語も話せない。そこで、彼女が自分の友だちとフランス語で会話して、章子とその友だちが日本語で話し、それを友だちがフランス語で母親に伝える方法をとった。

ようやく、寒さで水道管が破裂したということがわかった。章子は急いで自分の家に帰り、水道屋を呼んで事なきを得た。この一件でなんとなくエフィ一家との絆が深まったように感じられてうれしかった。人の役に立つのはいいものだなあと思う。

***

やがて、待ち遠しい春の到来。それは暖かい日曜日だった。奥様が留守で昼間エフィと遊んでいたら、彼の両親がタクシーで帰ってきたのだが、母親がなんと赤ちゃんと抱いているではないか!赤ちゃんは女の子で、名前は「ハンナ」と母親がうれしそうに教えてくれた。
「そうか、エフィに妹ができたんだわ。よかったな」

両親は章子とエフィが仲良くしているのがうれしいらしく、父親が写真を撮ろうとカメラを持ってきてくれた。
兄パトリックを除いたエフィ一家との記念写真。章子はなんだか照れてしまうが精一杯笑顔を浮かべてポーズをとる。

そのあとしばらくして、母親がいつものように玄関先で遊んでいるエフィと章子のほうへやってきた。手作りらしい黄色いケーキを載せたお皿を持ってにこにこ笑っている。

外国人が作ってくれたケーキを味わうのは生まれて初めて。とてもうれしい。でもこのお皿を借りたままだったらいずれ返さなければならないし、奥様にばれてしまう。章子は急いで家に入り、代わりのお皿でケーキを受けた。「ありがとう」とお礼を言うと、母親は家のなかへ戻っていく。

ケーキをふたつに割ってエフィに差し出す。2人とも手を洗っていないので汚れているが、章子は「大丈夫よ!」と言って彼にひと切れ渡した。小さいこどものように汚い手で食べるという、なんとなく共犯者めいた気分にワクワクしながらケーキをほおばった。ほんのり甘くて口のなかでとろけていく。こんなに美味しいお菓子を焼いてくれた彼の母親に感謝した。

章子が「エフィ、かわいい。女の子みたい」とからかうと「ダメ!」と言って真っ赤な顔になったのがまたいとおしい。片言の日本語と英語で何とか会話をするのだが、話が通じなくても身振り手振りでけっこう気持ちは伝わるものだ。

一緒に玄関先に腰掛けているだけでなんだか暖かいものがこみあげてくる。

***

「時間よ、止まれ」


しかし、1年たらずで章子はこの家を出ていく決心をした。住込みの仕事をしていると、予想していたよりも休日など、自由に出かけることが不可能だったからだ。友だちと交流する機会が皆無な現状では、青春をむだに過ごすことになるという焦りが出てきたのである。

そうなると、エフィと別れることにもなってしまう。それでも章子は自分の将来を選んだ。自分がいなくなることをエフィにいつ打ち明けようかと思いながら月日は過ぎていった。

エフィに話さなくてはという、うしろめたさが章子を苦しめていた。
毎日、今日こそはと思いながら、いざエフィの顔を見ると言い出せないでいた。無邪気に笑いかけるこの子を置いていかなければならないさみしさと、「自分がいなくなったらこの子はどうなるのだろう」という不安が胸を締め付ける。

いっそこのままもう少しここにとどまろうかと迷いもしたが、エフィに何も言えないまま引っ越しの日がついに来てしまった。


友だちの車が迎えに来てくれた時、恐れていた事態が起こった。エフィが学校から帰ってきたのだ。思えばひとことも別れの挨拶をしていなかった。それどころか、この家を出ていく理由を話す機会もなかった。出発の時間が迫っているため、バタバタと少ない荷物を車に積み込む。

エフィは何のことかわからないまま、茫然と立ち尽くしている。しかし、もう詳しく説明する時間はない。あわただしく車に乗り込み、エフィに大きな声で別れを告げた。

「エフィ、ごめんね~!」

後ろを振り返る章子の目にサッカーボールを手にして立ち尽くしている彼の姿が映っていた。涙で彼の姿がかすむ。こんな別れ方をしなければならなかったとは。

できるものならエフィがいない時に出ていきたかった。どちらにしても彼にしてみれば、ショックだったと思うが。

こうして、章子のかわいい友だちとの楽しかった日々は終わりを告げた。あの日撮った写真もまだもらっていなかったのに。前のクリスマスに集まった奥様のご親戚の皆さんにプレゼントしていただいたお気に入りのモヘアの白いセーターを着て写ったその写真をひと目見たかったな。エフィの家族との写真。みんなどんな風に写っていたのだろう。

***

エフィは今もその写真を持っているだろうか。もう何十年にもなるが、たまには思い出してくれているかしらと思うこともある。もしできるなら、もう一度金髪で青い目の私の天使に会いたい。

章子はそっと言葉にだして言ってみる。

”エフィ”・・・と。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?