2023/6/18

ここのところ、YouTubeで「wakatte.TV」なる低俗なチャンネルを好んで視聴している。ボケ(ふーみん)とツッコミ(びーやま)のコンビが街中や大学を訪ねて、道行く人に学歴に関するあれこれをインタビューする。ボケとツッコミと書いたが、正確には、あけすけな物言いをする無法者役とそれを戒める常識人役といったところ。戯画化された学歴厨である、ふーみんがインタビュイーの通う/っていた大学に対して「Fランやないか!」「脳筋大学です!」「○○大の分際で」などと暴言を吐いた――ふーみんは京大中退で、大概上から目線ができる――ところをちょいチャラめのびーやまが決まり文句と化した「ヤメロオマエ!」というワードでツッコむ。この掛け合いが楽しくて、つい動画を見続けてしまう。

ところで、「学歴」は社会の中で、コミュニケーションコスト削減の記号として流通している。「学歴」を言えば、あれこれコミュニケーションをとらずとも、その人の「頭のよさ」の度合いが迅速かつ明快(残酷)に伝わる。「学歴」は人を「標準化」して扱いやすくしてくれる。むろん、これは就職の面接時において買い手側の便宜に適うだけでなく、日常生活においても、コミュニケーションの力学に影響する。たとえば、「○○大の彼が言うなら、そうなんだろう」と、学歴の高い/低いが発言の信憑性を左右したりする。この前提は人々の間で広く共有されていると思う(というか、共有されていなければ、「学歴」が機能していない、ということになる)。この基本的な前提から、「wakatte.TV」を眺めて見ると、「学歴」による判断の過剰適用により、笑いをとっているシーンが多いことが分かる。つまり、「学歴」という「標準化」の物差しがただの偏見に成り下がるところを見て笑いが起きている。そんなことまで「学歴」が関係しているわけないだろう、というところまで、「学歴」によって決定されるとする(「水着の面積狭いほど低学歴説」の検証動画が好例)。ここで興味深いのは、僕もふーみんと同じように日々「学歴」を過剰適用しているのではないか、ということ。「脳内でバリバリ過剰適用してはいるが、それを口に出すことは下品だからしない」という倫理だけが、僕とふーみんを隔てているに過ぎないのではないか、ということ。そういえば、普段、人を判断するとき、パッと見て推定の「学歴」をぼんやりと貼り付けていることが多いことに気づく(たぶん、少し前に流行った行動経済学か何かの「システム1」「システム2」的な話で、「システム1」という瞬時に判断を下すためのシステムが脳内にあって、それが作動しているのだろうと思われる)。ふーみん演じる学歴厨モンスターは、僕の鏡像であるが、かなり戯画化されているため、そのことを都合よく否認――僕は彼のように低俗ではない――させてくれて、どこか安心している節があるのかもしれない。と、雑駁な感想を抱いた。

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